ノート:正親町町子

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大奥総取締役[編集]

「大奥総取締役」などという役職は徳川柳営には存在しなかったのに何故に本文に書かれているのですか?


●また、NHKの大河ドラマでは、女優の「吉田日出子」その他の人々が名演技を披露したというのに、どうして何も記されていないのでしょうか?

全く以て面妖な限りぢゃ!

町子の出自について[編集]

『出自については権大納言・正親町実豊と側室の田中氏との間の娘とする説があり、・・・、一方で正親町公通を実父とし、公通と水無瀬氏信の娘の間の子とする説もある。』

 柳沢吉保と町子は「町子の父は実豊、公通は兄」で一貫している。(「楽只堂年録」「松蔭日記」)

【町子の父は実豊、公通は兄】【町子の母は正親町実豊の妾であり、名は不明(常盤井とは別人)】

これを本説とするのが至当である(歴史上の女性の実名は大部分不明である)。

 公通には、町子とは別の「直子」という女(娘)がいて、吉保と町子の子・経隆に嫁したという。

「直子」の墓は東京・新宿の月桂寺にあり、墓碑・墓誌があるという。(公園文庫「六義園」)

また、公通と水無瀬氏信の娘(常盤井)を直接結ぶ資料は見えない(元々ない話は資料もあるはずはない)。

常盤井(右衛門佐)を町子の母とするのも誤認と思われる。

(詳細はウィキペディア「柳沢吉保」のノート欄を参照頂きたい)

 右衛門佐は宝永3年3月11日に亡くなったが、「楽只堂年録」の同日の条に、右衛門佐死去に関する記事がある。

それには、右衛門佐は桃井(田中)之政の養母であること、町子の母は正親町実豊の妾で、町子を生んで後正親町家を離れて之政に嫁したこと(町子は正親町家に残った)、右衛門佐は後年(晩年?)之政を養子にしたこと、その親族である町子や経隆が喪に服すべき期間、などが記されている。

こういう経緯により、右衛門佐と田中氏・町子の母との関係が複雑に絡み合い、時間軸を忘れて混同した結果が、こういう誤解として表われたと思われる。『玉輿記』や『柳営婦女伝系』より、『楽只堂年録』および『直子』『右衛門佐』の墓誌を採るべきである。

『町子の実父を正親町公通にする説に立つと、・・・』

公通が吉保と霊元天皇(上皇)との間を取り持ったのは間違いないが、それは公通が町子の実父でなく、兄であっても十分通用する話である。公通が町子の実父であるという推測の根拠になる話ではない。町子が吉保の側室になったいきさつについても同様である。

また、町子の母が妓女であったと蔑むような見方は不適切である。

町子によって書かれた「松蔭日記」の文体はすばらしいもので、かつ日記中に織り込まれた古典の和歌や源氏物語・伊勢物語などからの引用句は、町子の古典の素養の豊かさを如実に物語っており、町子が実豊のもとで幼児から育てられた、平安貴族の血を引く正当な子女であることを示している。

(2021年6月30日 柳沢吉保ウォッチャー)--Rikugigcmen会話2021年6月30日 (水) 11:16 (UTC)[返信]