ノート:橋田秀朝

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戦国大名とのことですが、一切Google検索で検出されず、また内容の信憑性に疑義があるため未検証を貼りました。作成者の方は出典をお願いします。なお、示されない場合は削除依頼に提出させていただきます。--松茸 2007年11月20日 (火) 14:23 (UTC)[返信]

寺田虎信室なら寺田春が妥当で青木春とは言わないのでは。重臣として使えるなんてことはあり得ない。家臣なら普通としてあり得るが、重臣かどうかは後世の人が判断することでしょう。軍師的存在というのはおかしい。軍師という役職はあったかもしれないが、大体ほかの職も兼任してることが多いでしょう。併記してもらいたい。それに家老になったのが早いのか軍師になったのが早いのかも不明。ほかの人のは病死とか病名を記しているのに、父が永眠だとか、兄の死因が記されてないなど、不公平な部分をなんとかして欲しい。喧嘩の内容を具体的に示してください。謀叛とは普通言わないでしょう。離反が当時使われていた常識だと思います。橋田秀朝自身が大名なのだから追い出したあと家をのっとったとしないとつじつまが合いません。宇野清親(備前国をのっとった後彼の言う軍師的存在になったという)の存在は明らかではない。わたしもググーで検索しましたがありませんでした。よほど次男が好きなようでいつも次男に家督を譲ってますが、24歳の若さで隠居とはその先どうしたのですか。まだまだやりたいことがいっぱいあったでしょうに。弱体化したというのには異論があります。単に毛利氏が強かっただけとか。そこら辺あまり検証可能性が満たされてませんね。主君に忠実な部下もいるのでその辺加味したほうがいいかと思いました。--Mmm25967 2007年12月1日 (土) 05:56 (UTC)[返信]