ノート:柳田國男

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

結論が出きっていない話だったように思いますので提起しますが、
「柳田國男」に記事を移動すべきでしょうか? それとも、旧字である「國」の字の使用を避けるべきでしょうか? - Gombe 14:45 2003年8月27日 (UTC)

「國」は旧字ですが人名用漢字許容字体に含まれており、現在も公式に子供の名づけに使える文字なので、旧字一般とは別に考えたほうがいいと思います。
Hachi 16:06 2003年8月27日 (UTC)
なるほど……では、移動することにします。:-) - Gombe 16:21 2003年8月27日 (UTC)

柳田國男は記憶では東京帝国大学農学部の卒業だったと思うのですが確信がもてません。明確な資料をお持ちの方が示してくださると幸いです。 - 利用者:小田啓太 10:49 2006年1月3日 (UTC)

東京帝国大学法科大学政治科で農政学を専攻、とのこと。 --忠太 2006年1月3日 (火) 15:16 (UTC)[返信]

:東京帝国大学法科大学卒業は間違いないのですが、「農政学専攻」に疑問があります。そもそも、「専攻」というのは、旧東大法学部(学部レベル)の歴史上なかったはずです。大学の講義やゼミで農政学も学んだのかも知れませんが、制度上「専攻」したとするのは、間違いの可能性があります(当然ながら、憲法や民法などの必修科目も勉強したはず)。

はい、確かに確認したところ、必修科目は憲法、経済学、財政学、統計学、国法学、政治学、行政法、国際私法、民法、商法、刑法総論で、「農政学」という講座はなかった模様です。(手元資料が1903年のものですが、柳田は1900年卒なので、大差ないでしょう)。ただし、柳田は卒業後も大学院に籍を置いており、研究テーマは「農政学」となっています。「農政に関心を持ち…」といった文章にしましょうか。 --忠太 2006年4月14日 (金) 16:37 (UTC)[返信]
郁文館を中退して、1892年共立中(開成学園)も出ていませんか?。あるいはその逆?
手元の年譜によると、1891年、高等中学校入学資格を得るため開成中学校に編入学、1892年、開成中学から郁文館中学に転校とのこと。翌年、第一高等中学校入学です。 --忠太 2006年3月23日 (木) 14:01 (UTC)[返信]

父操の旧名[編集]

父操の旧名ですが、記事中に「賢治」、「賢次」が混在しているようです。ネットでも両方が出てくるようですが、確実な文献がありますでしょうか。--Hermes3 2008年9月18日 (木) 13:45 (UTC)[返信]

姓の読み[編集]

よく知る人には常識なのでしょうが、柳田を「やなぎ」と読むことについて出典があった方がよいかと思います。「やなきた」と読むという説もあります[1]。--X1RqXf1 2012年1月21日 (土) 15:47 (UTC)[返信]