ノート:柳川市

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柳川と柳河について 私は正確に理解していないのですが、昭和26年の柳川町誕生までは「柳河」町であったのではないでしょうか。ですから、「柳川」との記述はそれ以降に限定すべきではないかと思うのですが、いかがでしょう。 「柳川」城という記述は歴史的には正確ではないのではないかと思うのです。

もしS26年以前の柳河を柳川と記述するのであれば、柳河藩も柳川藩とすべきではないでしょうか。

柳川市の記述に際して、冒頭に「柳川と柳河の区別について」というような項目を書き込もうかと思ったのですが、地元民でもない限り、使い分けを意識するはずもないので、細かすぎると判断し、この記述は行いませんでした。

Wikiの書き方に慣れていませんので、見当はずれを書くかもしれませんが、不適切な箇所がありましたらご指摘いただきますとありがたく思います。


蒲池氏に拘る方が居るようですが、柳川の起源は蒲池氏ではありませんので冒頭の要約からは削除させていただきます。柳川城の起源は蒲池氏なのかもしれませんが、wikiでは橘公頼となってますね。いずれにせよ、柳川の歴史は戦国時代に始まるのではありませんし、そんなに浅い歴史ではありません。蒲池氏を記述されたいのでしたら、なにか適切な表現を書いてください。

また、「筑後十五城筆頭」という枕詞も不要で、文章が徒に冗長になりますので、削除させてもらいます。「蒲池氏」を参照すれば足りることです。

  • 柳川市の起源は蒲池氏が建てた柳川城がルーツです。柳川市や福岡県立柳川古文書館でもそのように認識しています。橘公頼は、現在の柳川地域に攻めてきた藤原純乗を、当時は柳川地域の中心だった蒲池に建てた蒲池城で撃退し、橘公頼は蒲池城とは関係ありますが、柳川城とは無関係。柳川城は、蒲池治久が蒲池氏の支城として建て、孫の蒲池鑑盛の時に本格的に造作され、「柳川3年・・・」の戯れ歌でも有名な九州でも有数の堅城となります。鑑盛が柳川城下をどの程度整備したかは分かりませんが、本拠地の城下として道路整備や水郷の整備が知られており、これが現在の柳川市の「町」としてのルーツになります。主観で記述するのではなく、史料に基づいて記述しましょう。
    • 「柳川市や福岡県立柳川古文書館でもそのように認識しています。」それが事実でしたら結構ですよ。疑っているわけではなく、現在柳川に住んでいない私には確認の手段が無く、また、柳川市のHPの記述ではそのようになっていないからです(柳川に住んでいない人間は書くな、とおっしゃるなら判りますが)。「柳川地方に人が住み始めたのは、およそ2千年前と推定されています。」(以下略。柳川市HPより)。「柳川市の起源は蒲池氏が建てた柳川城がルーツです。」とおっしゃる根拠を示していただけませんか?鷹尾神社や蒲池地区の出土は柳川の歴史ではないのでしょうか?「柳川城」ないしは「柳川の都市化」のルーツは確かに蒲池氏なのでしょう。その点は認識を改めさせていただきました。しかし、このwikiの要約欄は「町」のルーツを書くべき場所なんですか?それ以前の歴史を踏まえて書いてはいけない、ということですか?主観で記述したつもりはありません。自分で可能な範囲で資料に基づいて書いていますよ。あなたこそ、蒲池氏にこだわって主観で書いてませんか?念のため、私は蒲池氏の歴史は素晴らしいと思います。しかし、ここでは柳川の歴史を客観的に書くべきでしょう。
    • ↑に記述したものです。ブルクドルフさん、バランスの取れた記述をしていただき、ありがとうございます。それと、柳川市の起源が蒲池氏かどうかはさておき、蒲池氏に詳しい方、柳川の都市化についても記述を加えていただけませんか?せっかくの知識を生かして柳川の歴史をより厚みのあるものにしていただくと、柳川人として嬉しいのですが。

真水を守る工夫[編集]

クリークはため池の役割をしています。矢部川から取り入れた水を網目のようなクリークにためておき必要なときに使うようにしています。だから日照りのときも水不足になりにくいのです。田やクリークが海面より低いために有明海が満潮のときに海水がクリークを通って田に流れ込む心配がありました。塩分を含んだ水は作物を枯らしてしまいます。そこで川の上流に「せき」を作って川の水がクリークに流れ込むようにします。また、クリークと川の境目にも水門を作って海の水が入るのを防いでいます。Fumika