ノート:林檎の樹

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「林檎の樹」のWikipediaでは、末尾の方に、"若き日の川端康成がこの「林檎の樹」を耽読していた。それが「伊豆の踊子」などの川端作品に影響を与えている。"とある。 二作とも若い頃の自分の旅先での出会い、経験が小説のヒントになっている。 二つの小説の情景描写や、心理描写の緻密さは、甲乙つけ難いほどに技巧に満ちた文章であること。 こうした共通点から、"川端康成がこの「林檎の樹」を耽読していた"ことがいかにも事実のように思えるのだけれど、少し調べてみた。

ネットのブログなどでは幾つかこのWikipediaの情報を丸写しにしていると想像できるものがあった。 しかし、図書館でこの「伊豆の踊子」の識者の論評、解説を幾つか調べてみると、川端康成がゴールズワージーに傾倒していたなどとの記述は一つもない。 ゴールズワージーがこの小説を発表したのは、1916年で、 川端康成が17才の時。 この年には「京阪新報」に小作品や「文章世界」に短歌を投稿している。 1918年か19年に、川端康成は伊豆へ旅行をして「湯ヶ島の思い出」を書く。 この中に「伊豆の踊り子」との出会いのエピソードが書かれているが、ようやく1926年になって、このエピソードが独立して「伊豆の踊子」として発表された。 さて、このゴールズワージーの本を、1926年の「伊豆の踊子」の発表までに、川端康成が読むことが出来たかということでは疑問がある。 原題「The apple-tree」の英語原文では、開隆堂書店から、昭和7年(西暦1932年)に国内で出版されていることが国立図書館データベースに記録されているが、この本では間に合わない。 つまり川端康成が読むとしたら、英国で出版された本を直接取り寄せて読むしか方法がなく、彼の当時の生活状況と、難解な英文を読むほどの英語力が当時の川端康成にあったかは非常に疑問である。 1920年に、東京帝国大学文学部英文学科に入学しているが、すぐに英文学科から国文学科に移っている。 もしゴールズワージーを耽読するほどに傾注していたとするなら、何時その本を読んでいたのか・・合点の行かない話である。

ちなみに「林檎の樹」の日本語の出版は、渡辺 万里訳 新潮社 (1953)、守屋 陽一訳 集英社 (1994) など、日本語版は問題外の時間のずれがある。 いかにも、二つの小説の共通点を見ると、ありそうな話に見えて来るけれど、この説を裏付ける納得できる事実や状況証拠は見つからなかった。                                     山村 洋一郎

山村洋一郎さん、どうもありがとうございます。その記述部分に「要出典」をつけた者です。私も川端康成の「伊豆の踊子」の作品論などを多く点検しましたが、「林檎の樹」に影響されたという考察が見当たらないので「要出典」としておいたのです。やはり山村さんの見立てでも疑問視されるものとなりますよね。「林檎の樹」の和訳の初出版時期も詳しくお調べいただき、私も可能性が薄いように思います。川端自身あまり英語が得意でないみたいなことを本人が書いていたのを読んだ気もします(どこだったかな…)。やはり一旦コメントアウトか削除が妥当と思いますが、この場合は独自研究色が濃厚のようなので削除しておきましょう。--みしまるもも会話2017年3月18日 (土) 07:32 (UTC)[返信]

川端康成の「伊豆の踊子」との関係について[編集]

本日、IPの方から、「林檎の樹」が川端康成の「伊豆の踊子」に影響しているというような主旨の加筆がなされ、以前の削除に関する訴えも編集要約にいただきましたが([1])、IPさんが根拠とされている彭柯然さんの論文「川端康成と翻訳文学 : 1922年の翻訳を中心に」(熊本大学社会文化研究 (16), 287-298, 2018)[2]を全文拝見しましたところ、川端康成がジョン・ゴールズワージーの「街道」を翻訳したことがあるということは明記されていましたが、川端がジョン・ゴールズワージーの作品をいくつも翻訳したとか、「林檎の樹」が「伊豆の踊子」に影響したとかは全く彭柯然さんは説明していませんでした。よって、「林檎の樹」が「伊豆の踊子」に繋がっているというのは、この出典からは全く看取できないため、削除させていただきました。

何か他の方の論文で、「林檎の樹」と「伊豆の踊子」の繋がりが述べられているものが見つかれば、私の方でも加筆したいと思いますが、今回ご呈示いただいた出典では、2作品を繋ぐ根拠が全くなく、関係性を繋ぐにはかなり無理があるため、削除へのご理解よろしくお願いします。--みしまるもも会話2021年3月3日 (水) 06:40 (UTC)[返信]