ノート:松下昇

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松下昇の特筆性[編集]

特筆性の基準について述べたいことは、2点ある。 一点目。 1960年代の、谷川雁、埴谷雄高、吉本隆明といった〈神々〉から、70年代に生き延びた菅谷規矩雄、北川透、佐々木幹郎、瀬尾育生といった詩人たちに至る〈布置〉において、「松下昇」という名前は知られている。「松下昇」は現在の読者に対しても、価値があることを立証したいと思う。 まず、詩人たちが松下をどう捉えたかを下記に引用する。

「1960年代の後半、三年余りをかけて『試行』に書きつがれたアフォリズム集『六甲』『包囲』は、いまわたしの前に二冊のうすいパンフレットとなって横たわっているが、六〇年六月の意味をくわえこみ自己の「闘争敗北後」の風景の自転力にまかせて、偶然のような必然性を帯びてさまざまな生活時間=空間へ倒れ伏していく人間の、影のような寡黙さと粘りつくようにおのれの意味を問うしぐさから始まった思考の歩みが、ついに「完了のまま未完了」という一見循環構造にもみえる螺旋階段をのぼりつめた言葉でもって終わっている光景は、永遠の未完了が完了を包囲してしまう思考の息づかいをみせ、さながら巨大な砂時計を思わせるほどに壮観である。 (p113-114「戦闘への黙示録--〈松下昇〉序論」『熱と理由』佐々木幹郎 国文社 昭和52年)」
「埴谷雄高の「警句」と訳すのに適当だと思われるアフォリズム集『不合理ゆえに吾信ず』が、谷川雁の言うように「昭和十年代の深夜版」であるとすれば、さしずめ松下昇の『六甲』『包囲』は一九六〇年代の深夜版ということができる。/ 両者の「発想」の違いを、書かれた時代的背景を別にして考えれば、埴谷が「永久革命者の悲哀」を提出するのに比して、松下が、「悲哀のない永久革命者」の像を政治論文としてではなく提出できるところにある。(p123 同)」

二点目として、1979年ごろにドイツのハンブルグ大学の教授であったKlaus Briegleb(クラウス・ブリークレープ)はその著『 Literatur und Fahndung 』(文学と探求)における評価を紹介したい。(後半はもう少し後で書きます。)
--Kakko matu会話2014年12月18日 (木) 07:48 (UTC)[返信]

松下昇の特筆性(2)[編集]

クラウス・ブリークレープ『文学と探求』の一部を紹介する。

「抑圧されたものたちの表現はあまり知られていない。それらの抗議の声は、ある条件においては耳にとどくけれども多くは沈黙したままである。私たちの任務はここでも又、〈敵対者〉や〈古典〉に対して行うように、沈黙の核をとり出すことである。私はこの方法を単に真剣にやっているだけではない。私は沈黙の核をとり出す際に、人間のあらゆる感覚を開放する過程でやっていく、というのは、私は人間の本来的な晴れやかさを信じており、もっとも良く笑うものが最後に勝利すると考えているからである。どのような抑圧の下にあっても私たちは笑っている間は、笑うことができる限りは勝利している。」(訳、自主講座実行委員会)京都大学新聞第1826号 これはブリークレープ自身の文章ではなく、「反抗する教師に対する処分の論理」というアサヒ・ジャーナルの座談会の彼による翻訳(をまた日本語訳したもの)。 敵対者の沈黙の核を取り出すという松下の方法が、国境を越えて評価された例と考えることができる。 --Kakko matu会話2014年12月20日 (土) 01:37 (UTC)[返信]