ノート:東武日光軌道線

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昭和14年の転落事故[編集]

2016年7月28日の編集で、昭和14年の荒沢橋梁からの転落事故

「荒沢橋梁では1943年(昭和14年)10月12日19:00頃[要出典]ブレーキ故障のために通勤客で満員の付随客車が脱線して連結した電車ごと谷底へ転落し、死者20名と重軽傷者86名を出す事故が起きている。」

について、和暦と西暦が一致しない旨の指摘がされましたので、記事全体を見てみたところ、沿革節で、

「*1939年(昭和14年)12月12日 - 午後7時頃古河精銅所付近で2両編成の電車が脱線。崖下に落ち精銅所職工ら死傷100人をだす<ref>死者は18-20人『東京朝日新聞』1939年12月13日朝刊、14日夕刊。聞蔵IIビジュアル</ref>」

と出典付きで書かれています。果たしてこの二つの記述は同じ事故のことを指しているのでしょうか? まさかおよそ100名もの死傷者を出す事故の2か月後に死傷者が同数規模の事故が起きたとは思えないので。後者が正しいならば、前者は日にちも誤っている(10月12月ではなく12月12日)ことになりますね。--210a会話2016年7月28日 (木) 19:06 (UTC)[返信]

沿革節の記述は資料をみなおしたところ誤りに気付き訂正しました1939年(昭和14年)12月12日ではなく1939年(昭和14年)10月12日が正しいです。ただ荒沢橋梁で転落したかはわからないです--Tamrono157会話2016年7月29日 (金) 00:11 (UTC)[返信]
当方は西暦表記を誤って記述していましたので根拠となる参考文献を明示した上で1943年→1939年に訂正致しました。1939年(昭和14年)10月12日19:00頃に荒沢橋梁手前にさしかかった電動客車+付随車の2両編成による事故で、電動客車のブレーキチェーンが破断して減速に失敗し、脱線した付随車に引きずられて2両とも崖下に転落したものです。本文中に引用するには少々長いので、ここに参考文献内から根拠となる記述を以下に抜粋引用しておきます。
以下引用(前略)スピードを出し過ぎたのと雨の為ブレーキが効かず、あッという間に脱線し、3丈余の河原に3回転して顛落し、車体は滅茶滅茶となり(中略)人家に遠く、道もない谷底でその上夜間のため、救出に非常な困難をした。(中略)急ブレーキをかけようとしたところチェーンが切れた為、後部の車掌台に非常信号をし、車掌は直ちにブレーキをまいたが間に合わず後車の前輪が先づ脱線し断崖より滑り落ち、前車もそれに引きずり込まれたものだという(後略)以上 高松吉太郎 「日光電車真ッ逆様、一瞬に死傷100名」『写真でつづる日本路面電車変遷史』144 - 145頁、鉄道図書刊行会、東京、1978年から抜粋引用
ついでながら大正8年の荒沢橋梁付近の事故については当方の手持ちの範囲では詳細がハッキリした参考文献が見当たらず、詳細を記述出来ないでいます。どなたか資料をお持ちの方、ぜひ……--DY28D35会話2016年8月3日 (水) 13:32 (UTC)[返信]