ノート:李家元宥

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「李」家と「李家」家[編集]

私が参照した可児弘明、「孟二寛とその後裔」、『史学』 2006、2006年、三田史学会、99頁”. 2017年9月30日閲覧。では、文体の問題もありますが、苗字が「李家」となるのは元宥の息子の代になってからと読めるのですが、閥閲録では元宥の代で「李家」に変更したと明記されているのでしょうか。念のためですが、知っている方は明示お願いします。--Sacchisachi会話2017年9月30日 (土) 07:14 (UTC)[返信]

『閥閲録』巻141の「李家宗億」(元宥の長男・如宥の家系)に収録されている「李家由緒」では李家元宥、如宥、規宥の李家氏三代の事績が記されていますが、毛利秀就の意向により苗字を「李家」に変更したという記述(「初ハ福餘李を稱號ニ用ひ候へとも、元以為李氏、秀就公依御意李家ニ改申候」)は李家元宥の項に記されています。
また、『閥閲録』巻141の「李家宗椿」(元宥の次男・就菴の家系)に記されている李家氏の由緒書においても、苗字を「李家」と改めた記述(「依為朝鮮李氏、稱號を李家と改申候」)は元宥の事績として記されています。
なお、「李家」に苗字を改めた具体的な年は分かりかねますが、巻141の「李家宗椿」に収録されている、寛永5年(1628年)12月13日付で毛利秀就が元宥の次男である道源(後の就菴)に宛てた書状の宛名が「李家道源とのへ」となっており、寛永5年時点では既に「李家」の苗字を名乗っていたようです。 --L.Aquawater会話2017年10月27日 (金) 20:30 (UTC) [返信]
丁寧に明示してくださって助かります。疑問が氷解しました。自分でも可能なら閥閲録を参照してみようと思います。まことにありがとうございました。--Sacchisachi会話2017年10月28日 (土) 14:00 (UTC)[返信]