ノート:最上義光

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山形藩石高について[編集]

最上57万石は、多すぎる。なぜ、根拠不明の数字が流布しているのか?山形市役所経営の最上義光歴史館の主張?

慶應元年武鑑によると、

酒井左衞門尉忠篤(溜間格 四品 元治元子十二月叙) 拾七万石 居城羽州庄内田川郡鶴岡 〈江戸ヨリ笹屋通百廿四里小坂通百廿里ヨ 最上領、元和八、酒井忠勝以後代々領レ之、〉

戸澤中務大輔正實(帝鑑間四品 元治元子五月叙) 六万八千二百石 居城出羽最上郡新庄 〈江戸ヨリ〉百十里廿五町 〈往古最上出羽守義光、同駿河守家親、同源五郞領分、元和八、戸澤右京亮政盛、以後代々領レ之、◯節略〉

水野和泉守忠精(從四位侍 從文久二戌六月任) 五万石 居城羽州村山郡山形 〈江戸ヨリ笹屋通九十四里餘土山通九十二里餘 城主最上出羽守義光、同駿河守家親、同源五郞義俊、

これらを合計すると、最上領の表高は、二十八万八千二百石となります。

ちなみに、慶長3年大名知行高では、最上は、13万石です。

最上義光分限帳は、延享4年に作成されたものであり、江戸中期には、かなり出羽の石高がUPしており、和漢三才圖會には、八十七万石と記載されているが、慶長の太閤検地では、32万石にすぎない。

江戸幕府の検地は、太閤検地以降には、慶安検地からであり、このとき、最上氏はすでに改易されており、慶長から50年経過し、東北の生産力はあがっている。--Bonjovi 2009年6月28日 (日) 05:38 (UTC)[返信]

すみません。時間がなくて急いで書き込んだので字を間違えただけです。正しくは『徳川実紀』です。
かつての最上領は大名領だけでなく、多くの幕領を含んでるんです。山形藩は改易されるたびにどんどん石高が小さくなっています。少なくとも改易時に鳥居氏が22万石(後に預かり領だった寒河江領が加増されて24万石)で入部してることからも、あなたの計算は成り立たないのでないでしょうか。--Thomo 2009年6月30日 (火) 11:19 (UTC)[返信]
僭越ながら節名を付与させていただきました。さて、Thomoさん提示の徳川実紀を修正しまた出典を追加しました。信頼できる情報源であり、57万石ではないとする新学説が出てそれが有力になっているのではない限り、57万石という通説を消す根拠はないでしょう。また武鑑の記述の方が適切とする出典がないので、通説に反する記録がある扱いでしょう。
なお、旧最上領ですが、『藩史大事典 第1巻』の「上山藩」(井上啓著)では、最上領は一部が幕領で、他は鶴岡14万石・新庄6万8千石・山形24万石・松山2万石・白岩8千石・上山4万石に分割されたとあります。武鑑は単に鶴岡藩・新庄藩・山形藩がかつて最上領に属したとの指摘しているだけではないでしょうか。また武鑑は民間で作られたものなので、誤りや欠落もあり、そのまま受け取るのはまずいかもしれません。研究者の書籍から引用したほうがよいと考えます。--KurmUmy 2009年6月30日 (火) 11:31 (UTC)[返信]

慶長検地から類推すると、22~24万石くらい?(秋田5除く)なんですよ。

1622年に改易されてるんで、このときまだ武鑑がないので、表高不明。

徳川家康・秀忠朱印状などの領土安堵の証拠とかもないんですよね?

その藩史大事典 第1巻』の「上山藩の計算だと、50万石になりますけど。57万石という数字と合致しません。藩史大事典というのも後世からの類推にすぎません。

慶應元年武鑑は、明治政府(神宮司庁など)が作成した古事類苑・出羽国に出典として掲載されてるもので、信用の置けるものではないでしょうか?

あと、徳川実紀の関が原後の論功行賞のところ読みましたが、最上57万石の記載なし、ウソですね。--Bonjovi 2009年7月1日 (水) 01:28 (UTC)[返信]

少なくとも『徳川実紀』の最上義俊改易の箇所に57万石とありますね。嘘と決め付ける前にちゃんと読みましょう。--丁度氷 2009年7月1日 (水) 11:56 (UTC)[返信]
そもそも、慶應元年武鑑の石高と元和年間の石高を同一視することが問題だと思います。「200年以上も石高が全く変化せず、領地の範囲も変わらない」のなら別ですが、慶應元年の最上旧領の大名領の合計で(天領編入などを全く考慮せず)、かつての最上領を割り出そうとするのは「独自研究」だと思います。第一、Thomoさんもおっしゃっていますが、山形藩は最上氏の次の鳥居氏時代は24万石だったのに幕末には5万石まで減っていますし、逆に新庄藩は戸沢氏が入ったばかりの頃は6万石でしたが、それを新田開発などで8200石増やしていたりするように、石高は不変ではありません。「最上の領地は57万石ではなく、もっと少ない」と記述するのであれば、そう書いている書籍なり、研究論文なり、専門家による研究の出典を提示して下さい。慶應元年武鑑や慶長検地から個人的に類推した結果はただの独自研究です(独自研究は載せられません)。慶應元年武鑑が間違っているというわけではありません(あくまで"慶応元年時点の大名の石高"としては正しいでしょう)。
それと、『徳川実紀』には最上義俊改易の所に確かに57万石とあります。また、「伊達家文書」に最上改易後の城地請取の軍勢編成を書いたものがあるのですが、そこには城ごとの石高も(一部を除き)記されています。それによると、「上山城3万石、山辺城1万7000石、高櫤城5000石、東根城1万7000石、野辺沢城2万7000石、小国城1万7000石、新庄城・清水城・真室城(3城合わせて)4万石、金山城1万7000石、鶴ヶ岡城8万石、大山城1万7000石、松根城1万3000石、亀ヶ崎城3万石、本庄城3万7000石、滝沢城1万6000石、楯岡城1万6000石、若木城2000石、飯田城5000石」となっています。肝心の山形城や、長谷堂城、八沼城の3城については何故か石高が記されていないのですが、とりあえずそれを除外して計算すると総計38万6000石となり、この時点で既に20万石台ではありません。残り3城の石高によっては、57万石でもおかしくはないと思います。--松茸 2009年7月1日 (水) 13:24 (UTC)[返信]

徳川実紀』の最上義俊改易の箇所に57万石 >>> 確認しました。収公の日付は論争になっており、寛政譜に従ったと記載されています。最上義俊改易57万石の出典は、寛政譜のようです。寛政譜も徳川実紀も江戸末期の編纂であることは、注釈すべきでしょう。

徳川実紀の関が原後の論功行賞のところに、最上57万石加増の記載がないのは変わりません。

慶應元年武鑑(明治政府作成の古事類苑に出典として掲載)に、藩封として、旧最上領が、28万石になっているのは事実ですし。

関が原後(1600年)の大名配置図に、慶長3年(1598年)検地・大名知行高を無視して、最上57万石という記載はおかしいといわざるをえない。慶長検地からは、13万石→24万石前後が正しい。

元和8年8月20日の段階で、仮に57万石であったとしても、生産力が上がっている事実もある。

最上義光歴史館(山形市役所)は、最上氏の史料は少ないと言って、都合の悪い記述を伏せており問題である。--Bonjovi 2009年7月2日 (木) 02:12 (UTC)[返信]

とりあえず一言。大元の史料はしっかり読んでください。寛政譜に57万石との記載はありません。徳川実紀に「寛政譜にしたがつて」とあるのは、あくまで収公の日付だけです。ですので、寛政譜は57万石の出典ではありません。で、繰り返しますがあなたの意見通りの研究がなされた出典はありますか? いくらおかしいとあなたが個人的に主張されても、専門家による研究がなされていなければただの「独自研究」で、個人の一意見に過ぎません。それと、先述したように「元和年間の最上旧領=慶應元年時の酒井・戸沢・水野領」と考えるのは無理があります。--松茸 2009年7月2日 (木) 04:23 (UTC)[返信]
私からもBonjoviさんに一言。『藩史大事典 第1巻』の「山形藩」(伊豆田忠悦著)を後世の類推として除去されていますが、この執筆者は大学教授で、立派な信頼できる情報源です。当時の直接史料しか「出典」にできないのではありません。その上直接史料をご自身の主観で選択しており、独自研究です。東北自治体の態度とやらも貴殿の感想でしかありません。これ以上ノートで個人の意見を演説しないで下さい。史料価値の考察はwikipedia執筆者が行うものではありません。--KurmUmy 2009年7月2日 (木) 13:32 (UTC)[返信]

Wikipedia:投稿ブロック依頼/Bonjoviを出させていただきました。よろしくお願いします。らりた 2009年7月2日 (木) 13:49 (UTC)[返信]

Bonjoviさんがブロックされましたが、編集されたものがそのままになっていますので皆様のご意見をお伺いしたいと思います。57万石の出典に関してはKurmUmyさんの編集に差し戻したほうがよいと思うのですが。少なくとも独自研究の部分は削除すべきだと思います。 また、当初24万石であったところを、『秋田家史料』によるとして13万石に編集されている点ですが『山形県史』によると、『山形市史』は秀吉により13万石の知行宛行状を与えられたと記しているようです。しかし『県史』側はこれに対して疑問を呈しており、「最上氏の慶長検地」(渡辺信夫氏、井川一良氏執筆)で24万石と記しています。一般的には、24万石のほうが通説だと思うのですが。--Thomo 2009年7月2日 (木) 16:29 (UTC)[返信]

Bonjovi氏の編集は「全て差し戻し」が適切かと思われます。らりた 2009年7月3日 (金) 12:19 (UTC)[返信]
独自研究部分を削除の上でKurmUmyさんの編集に戻しました。--Thomo 2009年7月4日 (土) 16:18 (UTC)[返信]

人物像の「鉄砲鍛冶を招いて最上家には2000丁の鉄砲があった」とする記述について[編集]

まず、出典はなんでしょう?また「最上家に2000丁の鉄砲があった」とするのはいつの時代の話でしょうか?それとこれは自分の記憶で出典が曖昧なのですが、東北地方に鉄砲(火縄)が入ってきて戦闘で組織的に使われるようにようになったのはかなり遅く、1580年代であったような気がします。(浜田広綱の起こした浜田兵乱(1587年)が東北地方の資料ではじめて大勢力同士の戦闘で鉄砲が使われたとかいう記述だというのをどっかで読んだような・・・)つまり、1574年の戦闘で「集団射撃を~」という記述も個人的には疑念が残るわけです。長篠の戦い(1575年)で織田軍が揃えた鉄砲隊ですら、実際には1000~1500程度といわれているわけで。確かに領内に貿易港を抱えている大名は遠方でも鉄砲の仕入れはあったと思いますが、そこまで組織的に扱えるほどの大量の鉄砲を1570年代に東北の大名が運用していたとは思えないので、出典をお願いしたいところです。--ポテンシャル0 2009年10月26日 (月) 08:46 (UTC)[返信]

別名の鮭様について[編集]

別名の鮭様について、史料的根拠はありますか?--2402:6B00:745D:5C00:E883:41B1:7849:475D 2020年6月29日 (月) 04:19 (UTC)[返信]