ノート:智雲院

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2022年8月19日 (金) 09:28‎ (UTC) の編集について[編集]

出典に挙げられた新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』を読みましたが、この中で秀長の妻が書かれる章は、瀧喜義「秀長は誰の子か」、桑原恭子「秀長をめぐる女たち」、川口素生「豊臣秀長関係人名事典」があります。
このうち、瀧・桑原には智雲院の名は登場せず、興俊尼(光秀尼)のみが秀長の妻として描かれています。秋篠氏の娘だということや、おきくを生んだこと、還俗してお藤と名乗ったこと、興福院の住持だということは興俊尼(光秀尼)についてのものです(桑原は光秀尼が側室だという説も紹介しています)。
一方、川口は秀長の正室として「智雲院」の項目を立て、その中で「秀長は尼僧・光秀尼を側室としたされるが(『奈良名所八重桜』)、真偽は不明」〔ママ〕としています。
これらのことから、智雲院と興俊尼(光秀尼)を同一人物とみなすのは困難として、興俊尼(光秀尼)に関する事績を省く編集を行いました。--YasuminB会話) 2022年8月19日 (金) 09:31 (UTC) / 誤字修正。--YasuminB会話2022年8月19日 (金) 09:49 (UTC)[返信]