ノート:日露和親条約

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日露(魯)通好条約[編集]

日露和親条約が結ばれた同年同日、「日露(魯)通好条約」がロシアとの間で結ばれていますが、この両者は同じものでしょうか? 同じものであるなら項目に記載する事を提案します。--神子原光 2006年9月27日 (水) 02:00 (UTC)[返信]

調べてみたら同じもののようなので本項で追記したいと思います。--神子原光 2006年9月27日 (水) 02:03 (UTC)[返信]

記述の信憑性について(出典を求めている記述)[編集]

以下の記述は、いつのことを言っているのでしょうか。正しい記述でしょうか。

  • 『日露国境策定交渉において、樺太の国境はこれまで同様に画定しないが、1852年(嘉永5年)までに日本人(大和民族やアイヌ民族等)が居住した土地は日本領であるとされた』
この記述が、他の項目でも引用されているようですが、正しい記述でしょうか。日本側はアイヌの居住地は日本の領土であると主張したこともありますが、実際には千島アイヌは、ロシア人化されており、ロシアが、樺太アイヌや千島アイヌの居住地を日本領とすることに同意するとはちょっと考え難いことです。1855年1月31日の交渉で、プチャーチンが同意したことは、日本人および蝦夷アイヌの居住地を日本領とすることです。当時、アニワ湾周辺には日本人が居住し、北海道アイヌも同行してました。ただし、この同意は日本語でのことだったので、後日、蘭語に翻訳する時点で、問題となって、結局同意は破棄されています。なお、このときすでに、ムラビヨフの砦が築かれており、砦の撤去の話は無かったので、日本領とするのは、居住地一帯ではなくて、本当に居住しているその場所だったと思います。いずれにしても、最終合意では省かれたことなので、詳しいことは分りません。『大和民族やアイヌ民族等が居住した土地は日本領であるとされた』との記述は、1月31日の交渉のことを言っていのならば、誤った記述です。いつの交渉のことなのか、同意された文書は何なのか、明示してください。Lib 1964 2007年11月26日 (月) 09:08 (UTC)[返信]


意味不明で、かつ本文の記載にふさわしくないと思われる記述を削除しました[編集]

日本語の誤訳に対して、以下の記述がありました。
『オランダ語の訳文には択捉島(イトルプ全島)は明確に日本領土としているため、上記の文章は意味不明である。』
何が、意味不明なのか分かりません。日本語は『残りの』が抜けているから、誤訳です。条約の翻訳と言うものは、「択捉島が日本の領土であることが分かれば、どんな意訳をしてもかまわない」というような性質のものではないのは、当然のことです。この誤訳は、クリル列島の定義の問題で、日本領となった択捉島は「クリル」の概念に含まれるのか、「クリル」とはウルップ以北であるとこの部分は定義しているのか、ここが、北方領土問題の主張に関係しています。
   『編集者の勘違いであるため、上記の文章の主張は成り立たない。』の記述も意味不明なので削除しました。--Lib 1964 2008年1月13日 (日) 09:10 (UTC)[返信]

 それから、いかなる根拠で『編集者の勘違いであるため』と書いたのか分からないのですが、誤解が無いように、出典を明記しました。少し煩雑な感もありますが。--Lib 1964 2008年1月13日 (日) 13:27 (UTC)[返信]