ノート:旅順攻囲戦

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出典について[編集]

小説が出典に挙がっていますが、歴史記事に関しては、一般的な歴史学の史料評価や、wikipedia:信頼できる情報源の記述から、歴史小説を挙げるのは不適当だと思います。常識的な内容と、一次史料、学者レベルと見なされる研究者による二次史料以外に基づく記述は、削除するか、逸話の項目で紹介する程度にした方が良いのではないでしょうか。--水晶の兎 2008年1月26日 (土) 06:24 (UTC)[返信]

司馬を学者レベルと見てよいかについては意見が分かれると思いますが、私はそう見ていますし、他に引用した著者も同様です。 信頼できないとする確たる証拠があるなら話は別ですが。なお、要出典はご指摘のとおり出典を示したので消しました。個人様としては多少不愉快かもしれませんが、通知の親切をしなかった以外、問題はない(というか出典が示された以上、消すのが当然)なはずです。さて、今回の改訂は自分で出典を示してなされたのだから前よりよかったと思いますよ。「機密」一本槍、しかも乃木擁護部分のみ抜粋、不利な部分は伝えずなのが、読者にどう伝わるかは別としても。以前のやや難癖の感のある修正より多少は誠実でした。--Rainy71 2008年1月26日 (土) 14:13 (UTC)[返信]

「重複した記事をつくること」に該当する部分を修正しました。 また、「記事の検証性」についてはガイドラインにもありますよう「配慮」が必要な程度で、あまり厳密さを求めるのは、記事の自由度を損なうことになり、適切ではありません。 さて、ずいぶんと我々が加筆修正したために「旅順攻囲戦」がかなり読みづらくなりました。読者のためには、全面の改訂をするか、別項にするかの方がいいでしょうね。 乃木無能論でも、乃木擁護論でもない、公益・国益につながるような公正な筆を(編集履歴を読めば分かると思いますが、私は無能論の主張者ではありません)、文章構成力のある方に求めたいものです。--Rainy71 2008年1月26日 (土) 14:49 (UTC)[返信]

2008/1/6の記事程度が分量、内容ともに常識的で適当だと思われますが、ここのところの編集の当事者になっているので、私としては後考を待つことにします。なお、出典を小説にとっている件は、その旨が明示してあれば、読み手が信頼性を判断できるので致命的な問題ではないとは思います。「乃木擁護部分のみ抜粋、不利な部分は伝えず」と書いてありますが、不利な部分は既に書いてあったので新たに書く必要がなかっただけです。--水晶の兎 2008年1月26日 (土) 18:13 (UTC)[返信]
大本営が正面攻撃を推奨したわけでないという記述に関しては正確さに欠けるので、とりあえず修正させて頂きました。--水晶の兎 2008年1月27日 (日) 08:41 (UTC)[返信]
やはり小説を典拠とするのは荒唐無稽と考えます。「信頼できないとする確たる証拠」が無ければ事実っぽい創作でも何でも良いのでしょうか?--Castlefield 2008年12月18日 (木) 14:10 (UTC)[返信]

脚注について[編集]

この度、私kokurakinkeiとPelham氏との間で編集合戦となり、編集保護の状態としてしまいご迷惑をおかけしております。私としては、該当部分の本文にはさほどの疑問を感じるところはなく、ほとんどが脚注の内容についての妥当性とでもいいますかそのような所に疑問を感じます。

Pelham氏の編集において、2012年1月16日の所から、それまで記載されていた脚注を並木書房の書籍に置き換えてゆくという編集がなされ始めました。結果として、参考文献として脚注に記された以下の資料名が失われました。

井上幾太郎著「日露戦役経歴談」『陸軍大学校課外講演集』、藤鋼次郎「日露戦争秘史 旅順攻囲秘話」、長岡外史関係文書、島貫重節『戦略日露戦争』、機密日露戦史

Pelham氏にお尋ねしたいのですが、上記のような書き換えをする意図はなんでしょうか?最終的には変えられる場所は悉く並木書房書籍に書き換えるのですか? ノート使用はあまり経験がなく、どのような事を書くところなのか今ひとつ把握できておりません。色々失礼すると思います。すいません。 --Kokurakinkei会話2012年3月8日 (木) 13:46 (UTC)[返信]

機密日露戦史とかを外す理由が分かりません。資料評価面から言えば、より基礎文献たる機密日露戦史の方が重要でしょう。それに、ゲームジャーナルはたまに買うけど、所詮はシミレーションゲーム雑誌であり、戦闘序列とかは詳しいところがあっても、戦略分析とかの評価は、高いとは言えません。--Los688会話2012年3月8日 (木) 14:04 (UTC)[返信]
うーん。少し見直したら、他の編集でも、並木書房の書籍ばかり追加されています。表現にも問題があります。少なくとも、過剰表現と思われるところは削っていきます。--Los688会話2012年3月8日 (木) 14:10 (UTC)[返信]
並木書房のもの、そして長南政義氏の研究に関連するものがほとんどといってよいでしょう。並木書房の「坂の上の雲5つの疑問」は、近年の出版ラッシュだった日露戦争関連書籍(坂の上の雲放映関連書籍)のなかでは、内容の緻密さなどで群を抜いたものであると思います。ゲームジャーナル編集部のこれまでの刊行物とはやや趣が異なるのかもしれません。主要執筆者である長南氏の影響が多大と思います。この刊行によって広く紹介された事実、経緯などを取り入れるか否かで、日露戦争についての言及評価はかなり変わるでしょう。画期的な刊行であったと思います。だからといって、上のように基礎文献の記載を上書きしてよいはずもなく、Pelham氏にお尋ねしたい点の一つは、基礎文献紹介の重要性をどのように考えておられるのか?というところです。もうしばらく反応を待ちたいと思います。--Kokurakinkei会話2012年3月11日 (日) 03:57 (UTC)[返信]

表記されている並木書房の書籍を読んでいますがこの本自体、表記内容の出典は機密日露戦史なども使っており、巻末でそれぞれのページのここはこれが出典であると態々表記されています。Kokurakinkei氏の仰るように同じ出典でしかないのに態々「並木書房」に差し替えるのも変だと思います--114.160.46.2 2012年3月9日 (金) 01:50 (UTC)[返信]

編集保護となる直前あたりのPelham氏とのやりとりの中で、氏は、「最初に誰がどの書籍で、その事実を紹介したか」を重視しているように思いました。並木書房の書籍での長南氏の研究は、これまで用いられて来なかった資料(伊地知日記、大庭日記など)を取り入れているのが大きな特徴点と思います。このようなケースではどのようにWikiPediaに記載してゆくのか、今回の例で言えば、「資料Aの存在」→「研究者Bが発掘」→「書籍Cに記載」という場合、「云々(脚注:資料A)」又は「云々(脚注:書籍C)」又は「研究者Bによれば云々(脚注C又はA)」その他もあると思います、どのような書き方が妥当といったあたりの指針はあるのでしょうか。個人的には基礎文献に辿れるようにするべきであり、研究者について言及するならば、本文中に一度は必要かも知れませんが研究者個人名が度々出るのは編集技量の問題、脚注内であっても簡潔を図るべきであり(◎◎本000p)程度が妥当と思っています。--Kokurakinkei会話2012年3月11日 (日) 04:45 (UTC)[返信]
Kokurakinkei様。はじめまして。Pelhamです。

①参考文献の註記のつけ方は、学会論文では、並木本のような共著の場合、編者であるゲームジャーナル編集部が当該記事を書いたわけではないので「筆者・論稿タイトル・編者・書名」の順で文責を有する筆者を明記するのが普通です(したがって、旅順攻囲戦の註記85で挙がってる、「歴史群像アーカイブス22「日露戦争」」というやり方も不適当です。と申しますのも、当該指摘は同書の編者である歴史群像さんがなされたわけではなく、歴史群像編集部・編「歴史群像アーカイブス22日露戦争」の中の旅順戦に関する当該記事を書いた「瀬戸利春氏」の指摘だからです。別の書籍になってしまい申し訳ございませんが、共著の註記の例を示しますと次の通りになります。(例)麻田貞雄「日本海軍と対米政策および戦略」(細谷千博ほか編『日米関係史 2 陸海軍と経済官僚』東京大学出版会、一九七一年)一一七頁。)。

②「人文科学」である歴史学の場合、歴史論文は、「史料」を基に書かれます。もし、WikiPediaの註記を史料のみで統一するならば、すべて「史料名」とその史料のページ数のみになってしまいまい、その史料から当該記載があることを初めて(または、先行研究と違った論旨の根拠として)指摘・発掘した著者の研究のオリジナリティーを損ねることになります。たとえば、もし、WikiPediaの註記が「史料名だけ」でいいとしてしまうと、旅順攻囲戦の註記102の「明治期国土防衛史 原剛著・錦正社史学叢書 P531、P548」も、同書が史料として使用している「陸軍省大日記」(防衛省防衛研究所図書室でだれでも見れます)と註記しなければならないようになってしまいます。しかし、「陸軍省大日記」がだれでも閲覧できるからといって、もし、原剛氏以外の研究者が、「陸軍省大日記」の当該個所を使用して原氏と同じ論旨の主張するならば、註記の仕方として、「「陸軍省大日記」該当頁。明治期国土防衛史 原剛著・錦正社史学叢書 P531、P548の指摘による」などと、最初にその史料を使用して当該指摘をした著者・書名と、原史料名を併記するのが普通です。 そうしなければ、歴史が「史料」で書かれる以上、史料のどの箇所に書かれていることさえ知れば、誰でも、最初に当該記述に関する「史料名と該当頁数」を孫引き引用して使いまわすことは可能だからです。 表記の仕方はいろいろありますが、次のような表記が普通です(表記法はいろいろで、要は、史料名と初出論文名(または、先行研究と違った論旨の根拠として同じ史料を引用した論文名)がわかればOK)。 (表記例:いずれも架空名称)「「丸木日記」明治三十七年七月を使用した青山太郎「丸木は無能か?」『旅順攻防戦の真相』(○○年、○○書房)○○p」

③また、「人文科学」の1分野である歴史学では、記載があったとして、その記載がどの史料を典拠にしているのか?が明示されていない場合、信頼性が低い記述とみなされます。司馬遼太郎『坂の上の雲』が谷寿夫『機密日露戦史』を史料として書かれていて、『機密日露戦史』と類似する記載があっても「歴史書」とみなされないのはそのためです。『戦略日露戦争』は良く書かれた本ですが、註記が一切なくどの記述がどの典拠に依ったか不明なだけではなく、著者の島貫重節氏自身も、『戦略日露戦争 上巻』「まえがき」7頁で、「史実に近づけるため、そのつど根拠史料の紹介などにつとめたが、機密戦略そのものの性格上、学問的な意味の正史資料の存在はないのが常識であろうと思う」と述べ、「根拠史料の紹介」がある以外の記述は、史料によらない島貫氏の創作である旨、明記されております。並木本との関連で問題となっている『戦略日露戦争』の当該個所は、『戦略日露戦争』349頁に出てますが、島貫氏が実際に難の史料を見てその記述を書いたのか?不明なわけです。島貫氏が「そのつど根拠史料の紹介などにつとめたが、機密戦略そのものの性格上、学問的な意味の正史資料の存在はないのが常識であろうと思う」と申されている以上、根拠史料の紹介が無いのなら、島貫氏の創作である可能性もあるわけです。島貫氏の著作の場合、巻末に「参考文献一覧」も掲載されていないので、同氏が何を典拠にしたのか全く不明なのも問題です。

④ちなみに、井上幾太郎著「日露戦役経歴談」『陸軍大学校課外講演集』などなどの諸史料の該当頁数が掲載されるようになったのは、更新日を見ますと、典拠史料名&刊行年&頁数を明記した並木本が2011年12月に刊行されて以後の更新であり、同史料を使用して書かれたWikiPedia記事の論旨も並木本の論考と同趣旨です。『機密日露戦史』は別ですが『陸軍大学校課外講演集』は国会図書館にも未所蔵であり、WikiPedia更新者が、並木本から引用したと考えてるのが合理的だと思われます。それとも、国会図書館未所蔵の同史料を複数の更新者がほぼ同時期に何らかの方法で閲覧したと考える方が合理的でしょうか。 2012年3月11日 (日) 20:30

Pelham様、はじめまして。kokurakinkeiです。よろしくお願い致します。この度の編集合戦のため、本文ページでの書き込みは合意がなされるまでは不可となってしまいました。この状態の回復を目的としてノートにて合意を目指したいと思います。よろしくお願い致します。

①について。学術論文であれば、厳密な投稿規定に外れないように細則にまで気配りすべきでしょう。受け取られすらしませんからね。しかしここWikiPediaでは、学術論文の体裁を要求されてはいないと思います。むしろ気配りすべきは、今から自分が編集で介入しようとしている場に倣うというか、そのあたりではないでしょうか。例に挙げられているような詳細な事まで書かれているでしょうか、また必要でしょうか。そして、そこまで厳密に書くべきという姿勢であるのならば、度々解説文のようなものを添えた行動は、矛盾するものではありませんか。

②について。上記にも重なる事ですが、結局のところ、この場に見合ったルールのようなものが必要だという話になるのかもしれません。そこまでゆかずとも、という場なのならば、場に倣うしかないでしょう。ところで、オリジナリティーを損ねるとは、具体的にはどのような状況を想起されておられるのでしょうか。

③について。司馬遼太郎『坂の上の雲』が「歴史書」とみなされないのは、あれは小説家が書いた小説だから、ではないでしょうか。また、「参考文献一覧」が記載されていない著作は非常に多く、そのような書籍を出典とした記述はここWikiPediaにて数多く見られます。ここはそういう場と割り切るべきではないでしょうか。

④について。『陸軍大学校課外講演集』などなどの諸史料を個人が所有しているというケースを考慮されましたか。ちなみに、私も『陸軍大学校課外講演集』、「日露戦争秘史 旅順攻囲秘話」、長岡外史関係文書、を所有しております。そして、この程度の史料を所有されている方は結構おられます。コピーにての所有まで含めれば、相当程度の数となると思われます。少なくとも、書き換えされるより前に、「要出典」などの注文を付けるべきだったのではありませんか。 --Kokurakinkei会話2012年3月11日 (日) 14:12 (UTC)[返信]

私の書き込みの後の反応を待っておりましたが、以後全く応答がない状況です。このような場合、同意なるものはどのようにして求めてゆけるのでしょうか。--Kokurakinkei会話2012年4月1日 (日) 03:53 (UTC)[返信]


お邪魔します。Pelham様の反論が無く、議論も進展しないのであればKokurakinkei様の意見に合意なされたと判断して保護を解除してもよいと思います。--114.160.46.2 2012年4月6日 (金) 01:43 (UTC)[返信]


結局、Pelham氏からの回答がないままに、自動的に保護が解除されました。すると解除後ただちに、氏はこちらノートには何の回答もないままに本文への編集を行いました。この事自体が個人的には納得出来ませんがまあ置いて、より納得出来ないのはその内容です。氏は、4月9日に旅順攻囲軍参謀であった大庭二郎のページに編集を加えておりますが、本文には何の変更も加えずにただ参考文献欄に研究家長南政義氏の文献を一つ追加したのみです。本文に全く変更がないのに、なぜに参考文献の追加が行い得るのか全く理解できません。Pelham氏の編集目的は、この4月9日の編集に限らず編集履歴全体を見ても、長南氏の名前をWikiPediaに記すこと、この点に集約されているように思えます。要するに宣伝としか思えません。

このような氏の編集作業によって基礎文献名が抹消されていくのは、どう考えても異常なことであると考えます。再び編集合戦となってしまい保護がかかることでご迷惑をおかけしてしまう可能性がありますが、このままにしておく方が問題と思いますので、以後、随時、Pelham氏の編集によって消去されてきた基礎文献を復活させてゆくつもりでおります。Pelham氏におかれましては、反論がおありでしたらぜひこちらノートにてよろしくお願いいたします。--Kokurakinkei会話2012年4月29日 (日) 16:22 (UTC)[返信]


kokurakinkei 様 Pelhamです。こんにちは。 1(①~②に対して)、歴史学の著作では、方式①先行研究の論文著者名および論文タイトル名だけか、方式②最初に当該史料を引用した論文の著者名および論文名を明記後に当該史料名を掲記するのが普通です。だれでも見られる公開性という特徴を持つ史料を使用し、出典史料を註釈に明記して書かれる現代歴史学の場合、註釈を見ればコロンブスの卵で誰でも同じ内容の論文を書けることになってしまします。そのため、先行研究を尊重し、類似する論旨で史料を引用する場合(たとえば、編集保護がかかる原因となった、機密日露戦史を典拠とした海軍軍人の発言を取り上げそれを旅順戦と関連付けている場合など。もし、この海軍軍人の発言が、奉天会戦と関連付けているなど別の論旨で引用する場合にはもちろん、先行研究とは言わない)、典拠史料名・頁数とそれを引用した論文タイトルと著者名を明記するのが普通であり(字数・紙幅の都合で省略される場合もあるが、ネットの場合、紙幅云々は問題にならないかと存じます)、先行研究で典拠史料名と頁数が明記されているからと言って、典拠史料名と頁数のみを先行研究の本文や註釈から引用するのは「盗作」とされます。先行研究の存在を知らなかった場合にまでそのような批判をするのはもちろん的外れですが、先行研究の存在を知っている場合(あるいは後になって知った場合)は、同じ史料を同じ論旨で引用する場合には「先行研究の論文タイトルと著者名」を「典拠史料名」と併記するのが普通です。 (例)加藤陽子『昭和天皇と戦争の世紀』(講談社、2011年)は、本文中で史料を引用する場合でも、「家近亮子氏の研究によれば」「鈴木多聞氏の研究によれば」などと、必ずその史料を使用している先行研究論文の著者名を明記してある。たとえば同書209頁「増田知子氏が明らかにしたように、枢密院議長倉富勇三郎は・・・[中略]・・・次のように語っていた」とした上で、「倉富勇三郎日記(憲政資料室所蔵)(国書刊行会より書籍化)」の該当箇所が引用されていたり、他のページでも「鈴木多聞氏の『「終戦」の政治史1943-1945』によれば、天皇の八月十日の御前会議での発言は、次のようであった。出典は「最高戦争指導会議に関する綴り(其の二)」(防衛省防衛研究所戦史部図書室蔵)」とした上で、当該史料から該当箇所が引用される方式である。 (例)wikipediaの「白根専一」では、参考文献である『山県有朋と近代日本』の註釈で掲記されている史料名(『品川弥二郎関係文書四』山川出版社、「陸奥宗光関係文書」)をwikipediaの脚注で孫引きするようなことはせずに、wikipediaの脚注でも【『山県有朋と近代日本』84ページ】と、参考文献名のみ掲記してあります。また、旅順攻囲戦の脚注102では【明治期国土防衛史 原剛著・錦正社史学叢書」P531、P548】とあり、明治期国土防衛史註釈で明記されている史料名は書かれておりません。先行研究がある場合は、先行研究名を挙げ、史料名をあげないのが普通です。

2(④について)、私の質問に対し、ご返答では、「この程度の史料を所有されている方は結構おられます。」とあるのみですが、私はそのようなことを問題にはしておりません。  また、「『陸軍大学校課外講演集』などなどの諸史料を個人が所有しているというケースを考慮されましたか。」と御座いますが、史料である以上、それは当然のことと認識いたしております。  私の質問の趣旨は、「更新日を見ますと、典拠史料名&刊行年&頁数を明記した並木本が2011年12月に刊行されて以後の更新であり、同史料を使用して書かれたWikiPedia記事の論旨も並木本の論考と同趣旨です。『機密日露戦史』は別ですが『陸軍大学校課外講演集』は国会図書館にも未所蔵であり、WikiPedia更新者が、並木本から引用したと考えてるのが合理的だと思われます」と御座いますように、WikiPedia更新者が、並木本が刊行された後になって、並木本と「同種の論旨」で、並木本が使用したのとほとんど同じ史料を使用し、wikipedia記事を書いている事を問題としている点です。この点には、ご回答が無いようです。  繰り返しになりますが、史料は図書館や史料館に行けば「誰でも見れる」のが当たり前であり、問題は、「その史料を使って誰がその点を指摘したのか?」が問題です。歴史は「誰でも見れる」史料を使って書かれる以上、「その史料を使って誰がその点を指摘したのか?」が一番問題であるため、学会では「先行研究」が重視されるわけであり、先に引用した加藤陽子氏なども先行研究名を明記した引用の仕方をなされるわけです。  ご回答に「諸史料を個人が所有しているというケースを考慮されましたか」と御座いましたが、「その史料を持っている」のと、「その史料を使って論文などで歴史的事実を指摘する」ことは全く違うことです。ただ、「史料を持っていて」も、「先行研究が出る」まで「史料を使って論じれない」方はたくさんいらっしゃいます(たとえば、「大庭二郎中佐日記」の存在していた事実は研究者の多くが知ってましたし、その複製を持っている人もいたかもしれませんが、並木本が出るまでそれを使って論文を書いた人はいませんでした。)。そのため、学会では、初出の指摘がなされた後に、「誰でも持っている史料だから」「誰でも見れる史料だから」といって、先行研究と同様の指摘をなされるのは、歴史学では盗作とみなされます(もちろん、先行研究論文があることを「知らなかった」場合や、論文の場合はよくあることですが紙幅の都合上、引用できなっかったなどの事情があれは、別ですが)。そのため、学会では、先に指摘したように、方式①先行研究の論文著者名および論文タイトル名だけか、方式②最初に当該史料を引用した論文の著者名および論文名を明記後に当該史料名を掲記するのが普通になっているわけです。

3、谷寿夫氏『機密日露戦史』や別宮暖朗氏の書籍にしても、史料や参考文献を基にした記述である。ただ、『機密日露戦史』の著者である谷寿夫氏や別宮暖朗氏も、紙幅の都合か正確な理由は不明ですが、谷氏の場合は参考文献を明記せず、別宮氏の場合は巻末に参考文献を一括して掲載する形式になっている(両者とも、時折、本文中で史料名を引用している個所があるが、頁数などが不記載なため、wikipediaの執筆者は史料名を明記せずに谷氏や別宮氏の書籍名と頁数を記載するようにしているようです)。一方、長南氏の論稿は学術論文の形式をとっているため、典拠史料を明記する形式になっている。註釈が不完全な機密日露戦史や、別宮氏などの著書は、典拠史料名を明記する記載方式を取らずに、学術論文方式を取り註釈が完全である長南氏の著作の場合にのみwikpediaの執筆者がその註釈を見て典拠史料名と頁数を引用するというやりかたは、不統一のきらいがあるのではないでしょうか。  もし、wikipediaの註記を史料に一括するのであれば、別宮氏の著作や歴史群像シリーズや原剛先生の著作などの方も、全て「原史料名と該当頁」で統一すべきではないでしょうか。

4、wikipediaはネットという不特定多数の人が瞬時に情報を取得可能な媒体であるため、学生が卒業論文やレポートを執筆する際も(最近ではライターや作家が執筆時に)、ここから引用するケースが多いです。大学の史学関係の講座では、「どんな史料」に基づいた「誰の」研究か?を明記するよう指導してますが、手っ取り早くwikipediaから孫引きする学生やライターも多いわけであり、盗作や孫引きを防止し、先行研究のオリジナリティーを尊重するためにも、「史料名」と「論文名・著者名」を併記するか、「論文名・著者名」のみを記載し、史料名は実際に論文にあたり確認するのいずれかの方式が宜しいのではないでしょうか。

5、「本文には何の変更も加えずにただ参考文献欄に研究家長南政義氏の文献を一つ追加したのみです。本文に全く変更がないのに、なぜに参考文献の追加が行い得るのか全く理解できません。」と御座いますが、「山縣有朋」や「高杉晋作」などの項目のように、本文や脚注で使用されてない書目も「参考文献」「関連文献」欄には多数の書名や論文名が掲記されております。  また、参考文献の引用の仕方に関しても、【ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年)】という、「論文著者名・論文タイトル・編著者名・書名」という表記が「宣伝」で「異常」だから、「編著者名と書名」だけでいいというご指摘が御座いましたが、wikipediaの「白根専一」の項目の参考文献に、【佐々木隆「内務省時代の白根専一 「山県系」形成の起点」『山県有朋と近代日本』吉川弘文館 2008年】や【佐々木隆『明治人の力量 (日本の歴史 21) 』講談社 2002年】というように、「論文著者名・論文タイトル・編著者名・書名」の順で示すのが、正しい参考文献の表記方法です。

6(③に関して)、「司馬遼太郎『坂の上の雲』が「歴史書」とみなされないのは、あれは小説家が書いた小説だから、ではないでしょうか。」と御座いますが、小説家が書いたものであっても、先行研究として認知されている書籍は御座います。また、③で私が先に質問いたしました【並木本との関連で問題となっている『戦略日露戦争』の当該個所は、『戦略日露戦争』349頁に出てますが、島貫氏が実際に難の史料を見てその記述を書いたのか?不明なわけです。島貫氏が「そのつど根拠史料の紹介などにつとめたが、機密戦略そのものの性格上、学問的な意味の正史資料の存在はないのが常識であろうと思う」と申されている以上、根拠史料の紹介が無いのなら、島貫氏の創作である可能性もあるわけです。島貫氏の著作の場合、巻末に「参考文献一覧」も掲載されていないので、同氏が何を典拠にしたのか全く不明なのも問題です】という個所にはご回答が無いようです。kokurakinkei 様は、以前、当該個所が「戦略日露戦争」に記載がある旨ご回答なされてましたが、著者が「そのつど根拠史料の紹介などにつとめたが、機密戦略そのものの性格上、学問的な意味の正史資料の存在はないのが常識であろうと思う」と申されているのに、編集合戦で問題になった箇所には島貫氏による「根拠史料の紹介」が御座いません。同書には参考文献一覧も御座いませんし、島貫氏自身が「根拠史料の紹介」をしていないにもかかわらず、何を根拠に谷寿夫『機密日露戦史』の該当箇所から引用したと仰られるのでしょうか。島貫氏が、「そのつど根拠史料の紹介などにつとめた」が「学問的な意味の正史資料の存在はないのが常識であろうと思う」と自身で述べている以上、編集合戦で問題になった箇所は、根拠史料が明記されていないため、谷戦史以外の史料を使って書いたか島貫氏の想像ととらえるのが妥当だと思われます。谷戦史と島貫本の当該個所を比較すると、島貫本ではだいぶ脚色がなされております。島貫氏が、あらかじめ「史料を現代語訳した」と断り書きを入れていたり、もしくは谷戦史の漢文調を現代語訳しただけであれば問題ないですが、脚色があるのは谷戦史からの引用というだけでは説明がつかないように思われます。--Pelham会話2012年5月6日 (日) 00:53 (UTC)[返信]

お久しぶりです。Pelham氏におかれましてはルール遵守という点についてもっとご考慮頂きたく思います。署名されるよう願います。

長々と書かれたために論点が拡散しておりますので、一点ずつ論じてまいりたく思います。ここノートの上記話題にも関することなので、まずは小説「坂の上の雲」について。Pelham氏は、『小説家が書いたものであっても、先行研究として認知されている書籍は御座います』と言われておりますが、それは小説ですか?小説家が、別の形式で著したものではありませんか?実例を挙げて下さい。--Kokurakinkei会話2012年5月5日 (土) 23:30 (UTC)[返信]

Kokurakinkei様、こんにちは。 たとえば、Kokurakinkei様が、「小説か?小説家が、別の形式で著したものではありませんか?」の基準線をどこで引くか基準にもよりますが、wikipediaで「城山三郎の小説」と紹介されてます、城山三郎『落日燃ゆ』などは、小説であっても、服部龍二『広田弘毅』(中央公論社)などでは先行研究の1つとして挙げられております。--Pelham会話2012年5月6日 (日) 00:30 (UTC)[返信]

>Pelham氏 小説かどうかの基準線は、そのようなところで適当と思います。 小説『落日燃ゆ』が、先行研究の一つとして挙げられているとのことですが、どのように用いられているという認識でしょうか。というかその前提として、「先行研究」という語句をどのような認識で用いられているのでしょう。WikiPediaによれば、先行研究とは、学術論文の執筆において当該領域で自分の研究よりも先んじて発表された研究を指す、とあり、小説が含まれるとは思えませんが。--Kokurakinkei会話2012年5月6日 (日) 12:41 (UTC)[返信]

>Pelham氏 小説『落日燃ゆ』が中公新書『広田弘毅』にて先行研究として挙げられているとの指摘ですが、実際に読んでみるととてもそうは読めません。話の添え物に過ぎません。曰く『「落日燃ゆ」をはじめとする小説などで一般に流布している広田の印象は〜』『広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」には〜、これに依拠した「落日燃ゆ」も〜』『広田弘毅の達筆ぶりについては、城山三郎の小説「落日燃ゆ」に記されている。それによると〜。このくだりは広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」に依拠しているのだが、事実とは異なるようだ』『〜それらが広田弘毅伝記刊行会「広田弘毅」や城山三郎「落日燃ゆ」に与えた影響は大きく、広田家が極貧であったという説は定着した。だが〜』などなど。このどこが、先行研究なのですか。先に挙げたWikiPedia上の定義においても、まったくそうは思えませんが。--Kokurakinkei会話2012年5月20日 (日) 06:28 (UTC)[返信]

>Kokurakinkei様 1、服部龍二『広田弘毅』の件ですが、Kokurakinkei様が指摘する『「落日燃ゆ」をはじめとする小説などで一般に流布している広田の印象は〜』『広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」には〜、これに依拠した「落日燃ゆ」も〜』『広田弘毅の達筆ぶりについては、城山三郎の小説「落日燃ゆ」に記されている。それによると〜。このくだりは広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」に依拠しているのだが、事実とは異なるようだ』『〜それらが広田弘毅伝記刊行会「広田弘毅」や城山三郎「落日燃ゆ」に与えた影響は大きく、広田家が極貧であったという説は定着した。だが〜』という書き方は、明らかに先行研究として城山氏の著作の問題点を挙げたうえで、それを史料に基づいて批判するという点、服部氏は「話の添え物」などではなく、先行研究として扱っているのは明らかです。また、学会雑誌に服部氏の著作の書評が数多く出てますが、書評内でも城山氏と服部氏の著作を対比して書かれることが多く、城山氏の『落日燃ゆ』は先行研究の1つとしてみなされております。

2、また、修正理由に「基礎文献の重視」とありますが、wikipedia内の海軍に関する当該書き込みが、長南政義氏が「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」『坂の上の雲5つの疑問』内で同史料を使用し当該事実を指摘して以降になされた以上、先行研究を尊重すべきです。論文や書籍の数が増え、先行研究に気づかないケースは研究者の間でも増えていますが、存在に気づかないのであれば仕方がない話ですが、判明している以上は、wikipedia内の海軍に関する当該書き込みが、同氏による論考の刊行後になされている以上、先行研究として同氏の論稿を明記すべきです。さらにいえば、歴史書はすべて史料を基に書かれる以上、別宮暖朗氏や『歴史群像アーカイブス』などの著作物に関してもすべて「基礎文献」の頁数を挙げてみてはいかがでしょうか。それができないのは、註記がなくて孫引きができないだけのことだと思いますよ。いずれにせよ、他の註記が、史料名ではなく、史料を使用し当該事実を指摘した研究書を註記としている以上は、当該事実を指摘した研究書や論文名を明記すべきです。

3、おそらく、この話は、孫引きを是とするか否とするかの対立で決着がつかないかと思います。 --Pelham会話2013年2月3日 (日) 10:52 (UTC)[返信]


>Pelham氏

1について:WikiPediaによれば、先行研究とは、学術論文の執筆において当該領域で自分の研究よりも先んじて発表された研究を指すものであり、小説は含まれません。2012年5月6日の書き込みに於いては、「小説」なるものの定義として「WikiPediaにおいては云々」という基準を持ち出しておきながら、「先行研究」なるものの定義についてはWikiPediaにおける定義を全く無視するというのは、あまりにもご自身の都合に良すぎるというものでしょう。

2について:あなたは乃木希典のページにおいても、こちらが添えた基礎資料名を長南氏の研究名に置き換えておりますね。該当する長南氏の研究は2012年3月のものでしたが、私が乃木のページに基礎資料名を書くにあたって参考にしたものは、2011年発行の文春文庫「徹底検証 日清・日露戦争」(半藤・秦・原・松本・戸高)なのです。この例で言えば、あなたは長南氏の研究を先行研究であると自己判断してこのような書き換えを行ったと想像しますが、実際は違っていたわけです。このように、近年著作が果たして本当に先行研究であるかどうかという判断をするのは非常に困難、というか、著者が著作中において宣言でもされていない限り、他人には判断が出来ません。Peiham氏にお尋ねしますが、あなたが、再三に渡って挙げている長南氏の研究は、間違いなく先行研究なのですか?その根拠を明記して下さい。

3について:ノートを見返しますと、基礎資料について記述することを是とする意見が大勢と見ますが、そのことについてはいかがでしょうか。 --Kokurakinkei会話2013年2月3日 (日) 13:06 (UTC)[返信]

>Kokurakinkei氏 1、1について、「『小説』なるものの定義として『WikiPediaにおいては云々』という基準を持ち出しておきながら」との指摘ですが、5月6日に私は、「 wikipediaで「城山三郎の小説」と紹介されてます、城山三郎『落日燃ゆ』などは 」と述べましたが、Kokurakinkei様がご指摘なされたように「小説の定義」としてwikipediaを持ち出したことはないですよ。きちんとお読みになられてはいかがでしょうか。さらに、私は、自身が使った先行研究という言葉の定義に関して、wikipediaの定義と一言も言ってません。それにもかかわらず、私が使用した先行研究の意味をwikipediaの意味にとらえるのはおかしいのではないでしょうか。では、逆に、Kokurakinkei様が、本ノート内で使用なされている用語はすべてwikipediaの定義だと理解して議論を進めてもよろしいのでしょうか?そんなことをしたら話は進みませんよね。それに、wikipediaの「先行研究」の定義は「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です」となっている通り、定義そのものが検証不十分ですよね。そのような定義を持ち出して反論なされるのはいかがなものでしょうか。

2、2011年発行の文春文庫「徹底検証 日清・日露戦争」(半藤・秦・原・松本・戸高)が初出の件は、さきほど確認しました。でしたら、文献名ではなく著作名たる、半藤一利・原剛・秦郁彦ほか『徹底検証 日清・日露戦争』(2011年、文芸春秋)と記述すべきでしょう。私の方でそのように更新しておきます。

3、「本当に先行研究であるかどうかという判断をするのは非常に困難」というのであれば、現時点で判明している初出のものを注記に明記しておいて、『徹底研究 日清日露戦争』のように判明したものを上書きしていけばいいだけです。

4、「基礎資料について記述することを是とする意見が大勢」といいますが、「多数決」で決定する場ではないですし、そのような利用規約もないです。多数決というのであれば、旅順攻囲戦の項目も乃木希典の項目も基礎資料名ではなく研究著作名が注記に上がっているのが「大勢」です。Kokurakinkei氏が「多数決」というのであれば、註記の表記法も多数決に従ってみてはいかがでしょうか(なお、誤解の無いように言っておきますが、私は多数決の場ではないという認識です)。また、歴史書は史料を基に書かれます。旅順攻囲戦のページ内で出ている別宮暖朗氏や『歴史群像アーカイブス』なども同様に、史料を基に書かれております。史料名(Kokurakinkei氏の言う基礎資料)で統一すべきであるならば、出典を頁数まで明記した長南氏の著作以外の、別宮暖朗氏、『歴史群像アーカイブス』や桑原嶽氏などの著作などに関しても、すべて基礎資料で統一するように書き換えてみてはいかがでしょうか。それとも、長南氏のように出典を明記していないと、資料名を探し出せないのですか?

5、また、 Kokurakinkei氏ご自身が、旅順攻囲戦のページ内において、註記をなさる際に基礎資料名を書かずに、『近代日本戦争史 第一編 日清・日露戦争』と書かれてますね。ご自身で基礎資料名を挙げるべきだと御主張なされておきながら、このケースでそうしないとは、Kokurakinkei氏ご自身も注記の表記に関して、基礎資料名ではなく著書名で表記することに同意しているということなのではありませんか。また、基礎資料名を挙げるべきであるとの御主張をなされているKokurakinkei氏ご自身が、本事例のように、そのご主張に反することをなさるとは、あまりにもご自身の都合に良すぎるというものではないしょうか。

6、逆に、注記では基礎資料名を書くべきだとご主張なされているKokurakinkei氏ご自身が、旅順攻囲戦のページ内において、註記をなさる際に基礎資料名を書かずに、『近代日本戦争史 第一編 日清・日露戦争』と書かれてます以上、私が著書名を表記しても構わないと考えますがいかがでしょうか。 --Pelham会話) 2013年2月4日 (月) 05:42 (UTC) --Pelham会話2013年2月4日 (月) 06:04 (UTC)[返信]


>Pelham氏

1について:それでは、あなたは先行研究という語句をどのような意味であると認識して用いられたのでしょうか?実は半年前の2012年5月6日に既にお尋ねしているのですがね。何も異論がなかったので、同意されていたと思ってましたよ。改めてお尋ねいたしますので、明記願います。

2について:なぜに文春文庫のそれが、初出であると確認できたのですか?初出である事を確認する方法も既にお尋ねしたのですが、まだお答えがありません。明記願います。「私はこれが初出であると確認した」と、「私はこれが初出であると思う」とは違いますよ。

3について:そのやり方は、問題がありますね。初出かどうかが判断つかないのですから、個々人がそれぞれに自己判断したものを書き込んでいくという無用の混乱を招きます。あなたが乃木のページで行った事がまさにこれです。この問題は容易に解決できます。判明しているのならば基礎資料名を示す、とすればよいのです。

4について:史料(基礎資料)名で統一すべき、と主張しているわけではありません。基礎資料名が判明し内容が確認できているのならば、それを記すべきとは思っております。そして私が問題視しているのは、あなたの方法では基礎資料(史料)名が削除されていってしまう事なのです。

5ー6について:『近代〜』に示されている基礎資料の内容を現時点で確認しておりませんので、『近代〜』と紹介したに止めております。これをもって、なにがしかの方法に同意していると捉えられても困りますね。基礎資料の内容が判明しているのならば、それを記すべきと考えているのですが、何か問題がありますか?

結局、学術論文のしきたりというか手法を持ち込むというのが問題なのではありませんか?参考文献の記載方法、研究者名の明記、初出のこだわり、それらはたしかに学術論文を書いていく時には気を遣わなくてはならない箇所ではあります。しかし、ここはそういう場所ではありません。 --Kokurakinkei会話2013年2月4日 (月) 14:39 (UTC)[返信]

Kokurakinkei 様

1、末文に、「 結局、学術論文のしきたりというか手法を持ち込むというのが問題なのではありませんか?参考文献の記載方法、研究者名の明記、初出のこだわり、それらはたしかに学術論文を書いていく時には気を遣わなくてはならない箇所ではあります。しかし、ここはそういう場所ではありません。 」と御座いますが、註記である以上は学術論文のような註記のやりかたが妥当です。あなた御自身が「参考文献の記載方法、研究者名の明記、初出のこだわり、それらはたしかに学術論文を書いていく時には気を遣わなくてはならない箇所ではあります。」と認めてますが、でしたらwikipediaの註記もそうなされてはいかがでしょうか。それに、「ここはそういう場所ではありません」と御座いますが、それはあなた個人の意見です。

2、1について。先行研究は、本項目は史学の分野ですので、私のいう先行研究も史学という学問分野で使用されている意味です。

3、2について。では逆にお聞きします。半藤一利・原剛・秦郁彦ほか『徹底検証 日清・日露戦争』(2011年、文芸春秋)が、初出ではない証明はありますか?初出でない方法を確認する方法をお聞かせいただきたいですね。それに、あなた御自身が半藤一利・原剛・秦郁彦ほか『徹底検証 日清・日露戦争』(2011年、文芸春秋)を見て書いたのであれば(そしてその事実をあなた御自身が認めている以上)、それを註記に明記するのが註記のスタイルとして妥当な書き方です。当該事実の存在が、ある書籍(半藤一利・原剛・秦郁彦ほか『徹底検証 日清・日露戦争』(2011年、文芸春秋))に登場することを知りながら、書名ではなくその著者が著書の中で明記した史料名を孫引きするのは明らかに盗作です。

4、3について。そのやり方は、問題がありますね。それでは孫引きにより無用の混乱を招きます。そして、他人の書籍の註を見て史料名を知りながら、史料名だけを書く行為を学問の世界では盗作といいます。あなたが乃木のページで『徹底検証 日清・日露戦争』(2011年、文芸春秋)を使用し行った事がまさにこれです。この問題は容易に解決できます。現時点で判明している初出文献名を書けばよいのです。たとえば、大山の書簡に関して、現段階で確認できる初出が『徹底検証 日清・日露戦争』(2011年、文芸春秋)であり、なおかつ、あなた御自身がそれを見てその存在を知った以上は、それを明記すればいいだけの話です。

5、4~6について。「私が問題視しているのは、あなたの方法では基礎資料(史料)名が削除されていってしまう事なのです。」「基礎資料の内容が判明しているのならば、それを記すべきと考えているのですが、何か問題がありますか?」とのことですが、はい、大いに問題ありです。史学の註記の書き方は、長年にわたり研究者が多くの試行錯誤を繰り返しながら学問的叡智を結集して生み出したスタイルです。註記である以上、学術論文の方式が適当です。それに私が問題にしているのは、あなたの方法では先行研究のオリジナリティを害し、孫引きが可能になるということです。それに、何度も申し上げますが、当該事実の存在が、ある書籍(半藤一利・原剛・秦郁彦ほか『徹底検証 日清・日露戦争』(2011年、文芸春秋))に登場することを知りながら、書名ではなくその著者が著書の中で明記した史料名を孫引きすることを学問の世界では盗作といいます。明らかにその存在を知って、当該論文・著作を見ながら、そのような孫引きをした場合、学問の世界では倫理的に非難されます。

6、あなたは「基礎資料名」という用語を頻繁にお使いですが、これはどういう定義ですか?史学の世界に「基礎資料名」なる概念はないですし、広辞苑を引いても出てきません。「基礎資料名」という用語の定義が曖昧である以上は、あなた御自身の判断でその範囲がどこまでも拡大することを意味します。たとえば、ここに今まで他の方が論文や書籍で使用していない「○○史料」があったと仮定しますが、あなたが「○○文書」は「基礎資料だ」といえばそれが基礎資料になるのであれば、それは他人の論文を見て盗作するのがOKという話になり、妥当ではないです。

7、それに、あなたのご主張のようなやり方で註を書く方式は、他人の著作の註だけを見て孫引き=盗作が可能となります。史学の註記の書き方は、長年にわたり研究者が叡智を結集して生み出したスタイルである以上、それに従うべきではないでしょうか。

いずれにせよ、この問題は、他人の著作物を見てその註から孫引きするという、学問の世界では盗作とされる行為を認めるか認めないかの議論です。旅順攻囲戦は主として史学のジャンルですが、大学院などで史学を学んだ方は、あなたのいう孫引きがOKというスタイルには納得しないでしょう。孫引きを是とするか否とするかの対立で決着がつかないかと思います。


--Pelham会話2013年2月4日 (月) 20:38 (UTC)[返信]

>Peiham氏

1について:ここWikiPediaは、学術論文を書くような厳密さを求められる場所ではありません。

2について:「私のいう先行研究も史学という学問分野で使用されている意味」といわれますが、それはWikiPediaにおいて「学術論文の執筆において当該領域で自分の研究よりも先んじて発表された研究を指す」と書かれている意味と、どう違うのでしょう?

3について:あなたは、「2011年発行の文春文庫「徹底検証 日清・日露戦争」(半藤・秦・原・松本・戸高)が初出の件は、さきほど確認しました」と書かれておりますね。あなたは、初出である事を確認する方法を知っているのでしょう?その確認方法をお尋ねしているのです。『◎◎が△△ではない証明はありますか?』と逆質問されてしまいましたが、それは悪魔の証明ですね、としか答えようがありませんね。

457について:「孫引き」とは、直接に原典から引くのではなく“他の本に引用された文章をそのまま用いること”、ですね。引用文章の孫引き、という用い方はわかりますが、史料名を孫引き、というのはどういう意味なのでしょうか。 また、「盗作」という言葉を「他人の書籍の註を見て史料名を知りながら、史料名だけを書く行為」を指して用いている例を示して下さい。ついでながら申しておきますが、私は『徹底検証〜』を見て『明治軍事史』に大山書簡が記載されていることを知ったわけではありません。『徹底検証〜』の例を示したのは、長南氏の研究が初出ではないよ、という実例を示したまでのことです。ちなみに、もう一例あります。もっとあるかもしれませんね。あなたの例に拠るのならば、大山の書簡に関して、『徹底検証〜』出版以前の段階で、私自身が『明治軍事史』を読んで存在を知ったので、それを明記しただけの話です。当時某掲示板に書き込んだ事がありますので、ログの記録などで証明できると思います。

6について:以前に「史料名(Kokurakinkei氏の言う基礎資料)」と解釈しておられましたが、そのように史料という意味で使っていると認識下さい。

私は「孫引き(直接に原典から引くのではなく他の本に引用された文章をそのまま用いること)」がOK、などと言った覚えはありませんが?どこでどうやってその認識に至ったものか理解しかねます。そのような事を口走った箇所がありましたら、ご指摘願います。 --Kokurakinkei会話2013年2月5日 (火) 14:17 (UTC)[返信]


海軍陸戦重砲隊15センチ榴弾砲[編集]

海軍陸戦重砲隊の15センチ榴弾砲は、第一回総攻撃開始(明治37年8月19日)の時点で稼働していたのでしょうか? 現在の本稿内容では、海軍は12センチ砲までしか稼働していなかったように読めるのですがこれは本当なのでしょうか?

8月9日に海軍陸戦重砲隊が戦艦レトウィザンに命中弾を与えたときに、15センチ榴弾砲を使っていたのでしょうか? --Kkddkkdd会話2014年10月11日 (土) 09:09 (UTC)[返信]


海軍陸戦重砲隊が旅順戦に投入した重砲は「日露戦役経歴談(旅順攻城戦の部)」での井上幾太郎陸軍大将(旅順戦当時は第三軍参謀)の談話では

  • 12听(ポンド)速射砲10門 ※攻城戦末期は19門に増加。口径では7.5糎相当
  • 12栂(ドイム)速射砲6門 ※ドイムはオランダの単位でcmと同義
  • 15栂(ドイム)速射砲2門 
  • 47密(ミリ)速射砲12門 ※第一次総攻撃後の9月10日より投入

です

このうち第一次総攻撃時に保有していたのは12听速射砲と、12糎速射砲だけです。これは長南政義著「日露戦争第三軍関係資料集」の126pにある、「第一回総攻撃に於いて日本軍の発射弾数表で海軍所属砲が上記の2種類の砲しか表記されていない事から分かります。また同書に載っている「大庭二郎中佐日記」にも8月7日のところでは海軍の12珊砲(12糎速射砲)を後甲子南方に2門配置して湾内を砲撃、午後に1門が故障するも残り1門で射撃を継続。そして9日のところでレトヴィサン他に命中弾を与えたと書いています。なのでこの時点では15糎速射砲はなく、12糎速射砲だったことが判ります。

第一次及び第二次総攻撃時の重砲の投入数(各師団の野砲、山砲は除く)は

第一次総攻撃(明治37年8月19日)

陸軍

  • 12糎加農砲30門
  • 15糎榴弾砲16門
  • 15糎臼砲48門
  • 10.5加農砲4門
  • 9糎臼砲24門
  • 12糎榴弾砲28門

海軍

  • 12糎速射砲6門
  • 12听速射砲14門

第二次総攻撃(同年10月26日)

陸軍

  • 28糎榴弾砲18門
  • 15糎榴弾砲16門
  • 12糎榴弾砲16門
  • 15糎臼砲72門
  • 9糎臼砲24門
  • 12糎加農砲30門
  • 10.5加農砲4門

海軍

  • 15糎速射砲4門
  • 12糎速射砲10門
  • 12听速射砲19門

となっています--Thsbhseven会話2014年10月21日 (火) 12:54 (UTC)[返信]

ありがとうございます。またコメントを頂いたことに気づかなかったことにお詫び申し上げます。海軍陸戦重砲隊の12センチ砲について、本記事に、情報・写真があと少し追加されたならば意義深いかなと思います。--Kkddkkdd会話2015年3月10日 (火) 15:48 (UTC)[返信]

海軍の港外間接射撃案[編集]

海軍の港外間接射撃による旅順艦隊撃破の計画には、砲撃観測点の確保および敵の旅順の砲台からの砲撃対策の難点があると思われるのですが、どのように対応を計画したのでしょうか?本当に実現性があったのか疑問を感じています。--Kkddkkdd会話2015年3月10日 (火) 16:58 (UTC)[返信]