ノート:方広寺鐘銘事件
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河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』の記述について
[編集]Kyoto history と申します。
私は方広寺大仏(京の大仏)に関する事柄を加筆しています。方広寺大仏を研究している河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』という本が刊行されたので、それを底本にして加筆しています。
上記書籍ですが、以下のスタンスで書かれています。
1、方広寺大仏・大仏殿の変遷を中心に、豊臣と徳川の関係を考察する。
2、一次史料に準拠するが、それがない場合は注記書きの上で、二次史料も使用する。
3、なるべく武家の史料は避け、公家・僧侶の残した史料に基づいて検討する。
当該書籍の方広寺鐘銘事件について扱った部分では、現行のwikipedia版とは全く正反対の内容が記述されています(読み方によってはそもそも鐘銘事件はなかったとも読める内容になっています)。私は方広寺鐘銘事件の政治史的側面について疎いので、河内氏の記述が正しいのか否かよく分かりませんが、
「家康は鐘銘事件について、且元に責任はないと考えていた」「鐘銘文をすりつぶせばよいという内示が家康よりあった」ということを示唆する一次史料がある旨のみ、wikipedia本文の「方広寺鐘銘事件の評価」に追記しておきました。
上記につきまして、お詳しい方がいましたら、加筆・修正していただけますと幸いです。
なお河内氏の論考は以下の通りです。
※凡例
〇:一次史料名(本のページ)
<考察>:河内氏の考察(本のページ)
<鐘銘事件>
<考察>:『本光国師日記』によれば、鐘銘文に長々と長文を書き連ねたことと、自身の諱を入れられたことを問題視した(p.158)。 一次史料の『本光国師日記』には、通説で言われるような、諱を割いたことについての言及はない(p.159)。棟札については、家康の派遣した中井正清の名が記されていないことを問題視した(p.158)。
ただし家康がそれらの問題について言及したのは、落慶供養の延期を仰せ出した後であることは留意が必要である(p.158)。落慶供養での天台宗と真言宗の席座を巡るトラブルが生じたので、「開眼供養」と「堂供養」を別日にし、「堂供養」を8月18日に行うのはどうかという内意を家康は示した。しかし片桐且元と板倉勝重は家康の案を渋り、再度、同日案を家康に提示してきた。『義演准后日記』7月29日条には「上棟・開眼・堂供養、大御所(家康)上洛まで御延引」とあり、最終的に家康は、自身が上洛するまで各種落慶供養を延期するよう、7月末に命じた(p.159)。『本光国師日記』には、8月5日に例の鐘銘文を家康が確認し、問題視したとある。
✳『駿府記』には7月の段階で鐘銘の下書きを家康が確認し、「関東不吉の語あり」としたとする記述があるので、上記の記述が正(信憑性がある)とすれば、通説通りのようです。(Kyoto history 追記)
<鐘銘問題に対する且元の駿府での謝罪> 且元は駿府で家康に対面できなかったが、協議が不調で終わった訳ではない。徳川方はいわゆる三か状を且元に提示したことを一次史料で確認できない。
〇『本光国師日記』8月22日条に以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状の掲載ある(p.162)
「市殿(片桐且元)不届きの儀はこれあるまじきとの上意」「文言以下の善悪、市存ぜられざることも、もっともとの御諚」「鐘をば銘をすりつぶしそうらえとの御内証」
<考察>:鐘銘文は重大な問題だが、片桐且元に責任はなく、梵鐘から問題の銘文をすりつぶせば良いとの家康の内意があったとしている(p.162)。
〇『本光国師日記』9月8日条に、同じく以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状の掲載がある(p.162)
「おのおの談合そうらいて、江戸様(徳川秀忠)と秀頼公以来疎意なきように、江戸様へ御意を得られそうろうようにと仰せ出」「市殿も安堵」
<考察>:徳川秀忠と豊臣秀頼の両者が疎遠にならないよう、大阪で会見する案も存在していたとしている(p.162)。
〈且元の退去の理由〉 不明
〇『言緒卿記』9月27日条
「大坂片桐市正(且元)、秀頼公の前大樹(家康)へ使いつかまつり悪しきよしそうらいて、語意に背くよしなり」(p.163)
〇『義演准后日記』9月26日条
「片市正(且元)・同主膳(貞隆)切腹せらるべし」(p.163)
<考察>:且元が駿府での会議から帰阪し、秀頼らにどのような内容を伝えたかは不明だが、且元は逆心を疑われ、命の危険にさらされることになった(p.163-164)。
徳川氏より且元にいわゆる三か状を突きつけ、それを秀頼に伝えたので逆心を疑われたという通説については
疑問が呈されており、曽根勇二氏『片桐且元』2001 で指摘のように、三か状は且元の私案でしかなかった(p.195)。
〈且元の退去を受けた家康の上洛〉 すぐに大坂城を攻撃しようとした訳ではない。
通説では10月に御陣触れをしたことをもって大坂攻めを決定したとされるが、御陣触れをしたのは事実だが、一次史料からは、すぐに大坂を攻撃しようとしたとする意図は確認できない(p.165)
家康は、七将による石田三成襲撃事件の時の仲裁のように、豊臣氏と且元を仲裁する意図で上洛しようとしたのではないか。(p.164)