ノート:手待ち

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将棋におけるパスおよび手待ちについて[編集]

以下の議論はノート:囲碁から移動したものです。--Haruno Akiha 2007年9月23日 (日) 03:32 (UTC)[返信]

「将棋について『パスが最善』というケースはまずありえない」というのは経験的・感覚的なもので出典はないのですが、チェスに比べたらパスが最善というケースは「はるかに」起こりにくいです。その理由はやはり持ち駒にあるわけで、持ち駒のないチェスのように局面が進むにつれて着手可能な着手数が減少するということが将棋では起きにくいです(むしろ増加することが多い)。将棋でもどちらかの持ち駒がない場合にはチェスと同じく着手可能な着手数が減少しますが、その場合には相手の持ち駒を含めた戦力が増えているので相手の着手可能な着手数がかなり増加し、パスするまでもなく持ち駒のないほうの必敗となる可能性が極めて高くなります。したがって、将棋について「パスが最善」というケースはまずありえないと考えたわけです。そういう意味で、「パスが最善」というケースがある例として将棋を持ち出すのは不適当だと考え、「将棋」の字句を削って、パスが最善というケースがある例として適当であると思われる「チェス」に置き換えるなどの編集を行ったわけです。なお、検証可能性の観点から考えるに、出典を提示する責任は「将棋には(少なくともチェスと同程度に)『パスが最善』というケースがある」と主張する側のほうにあり、「ない」と主張する側にはないと考えます。--Haruno Akiha / Talk / History 2007年8月11日 (土) 05:19 (UTC)[返信]
あと、Bonanzaはあくまで将棋の対局ソフトであって「パスが最善」というケースがどれだけ起こりやすいかを検証するソフトではないので、Bonanzaがチェスの対局ソフトのアルゴリズムを応用しているから、将棋にはチェスと同程度に「パスが最善」というケースが起こりやすいということにはならないと思います。--Haruno Akiha / Talk / History 2007年8月11日 (土) 05:42 (UTC)[返信]
細かいところに突っ込んでしまって恐縮です。将棋とチェスの比較については(僕は)理解しました。またここいらの全体の構成、記述を見直した方がよさそうということのようなのですが、とりあえず僕自身手元によい資料がないので、あまりすぐに手を付けられないです。言いっ放しでごめんなさい。構成案は上で書いたものに限らないと思いますので、出来る方にやっていただければと思います。--Sugitaro 2007年8月11日 (土) 06:55 (UTC)[返信]
Haruno Akiha(春野秋葉)様、ここでは囲碁の説明をしています。チェスと将棋のお話は無意味です。どちらもルール上パスが認められていないことが重要なのです。パスが有効であることを想定した場合において、将棋はパスできないが囲碁はできるということを言っているわけです。この主張は間違っていません。また、将棋の対局で手待ちがあることは周知のことです。感覚的な話をするのではなく、将棋には手待ちの必要がないというならそのような資料をお示しください。222.119.112.153 2007年8月11日 (土) 07:01 (UTC)[返信]
これだけでは何なので、しつこく資料を、まずgoogle検索結果、「手待ち 将棋」の検索結果 約 1,630 件、手待ちの実際例[第24回朝日オープン将棋選手権予選第12局]評にいわく「駒組みが終わった段階でどちらも有効な打開策がなく、手待ち手順が繰り返された。」、[第14回世界コンピュータ将棋選手権九回戦]評にいわく「振り飛車穴熊でお互い手待ちの展開だが手待ちの仕方がひどすぎた。」、ちょっとググっただけで山ほど出ます。Haruno Akiha(春野秋葉)様がどのような将棋力でどのようにお考えかは私にはわかりませんが、正直将棋を指していてパスしたい時など山ほどあります。独自の調査でない、しっかりとした資料を提示して、実際に行われている将棋で、手待ち(積極的な着手をせず相手に手を渡す、つまり事実上のパス、ルール上パスできない将棋においてパスが有効かなどという話がなされるわけはない。パスができないので、手待ちをするのである)の状況は極めて例外的であることを示されるか、将棋チェスがルール上パスが認められていることをお示しください。私は将棋での手待ちの出現頻度のいかんを問わず、私の文はルール上将棋チェスにパスがなく、囲碁にある以上正しいと考えています。ちなみに「大辞林 第二版」によれば「手待ち」の意味として、将棋で、こちらから仕掛ける有効な手がなく、相手の動きを見る状態のこと。とあり、手待ちが将棋用語であることが出版され辞典から見て取れます。それから、「「将棋には(少なくともチェスと同程度に)『パスが最善』というケースがある」などとは私は主張しておりませんし書いてもいません。独自の主張を持ち出してそれをあたかも相手が言ったことのように言うのはおやめください。また、百科事典の説明にはルール上説明できることが第一であり、実践的に証明されているあるいはそうした事実があることが知られているという内容が第二となり、周辺的な事例の説明において個人の主観と区別できない感覚的なものは載せるべきではない、あるいはそうしたものにとらわれて本文を変えてはならないと考えております。個人的な主観で何度も書き換えを行われるのは正しい姿勢とは思いません。222.119.112.153 2007年8月11日 (土) 07:29 (UTC)[返信]
再確認になりますが、私が一番言いたいのは囲碁#ゲームの概要の節の「パス(Haruno注:厳密には何も指さずに手番が相手に移ることだが、ここでは一応手待ちも含むことにする)をすることが有効となることがありえる」ゲームの例示としてどうしても将棋を記述せねばならない理由などないということです。どうしても将棋をここに記述すべきであると主張するのであれば、そう主張する側が「どうしても将棋を記述すべきである理由」を示すべきですが、そのような理由は示されていません。百歩譲って「将棋でもパスが有効である」ことが示されれば「将棋を記述すべきである」と解釈するとしても、現在示されている理由は「将棋でパスが有効であるかもしれないと考えられる例」であり、「パスが有効であると証明された例」ではありません。コンピュータ将棋で手待ちがしばしば行われるのは私も知っています。しかし、それが有効であると実際に証明されているわけではありません。一般論として「ある事例が存在すること」と、「そのような事例が実際に有効であるということ」はまったく別の話であり、前者を示しても後者を証明したことにはなりません。
将棋で「パスが最善手」である局面が存在することを証明するには、ある局面においてパス以外のいかなる手を指しても相手が最善手を指せば必敗となるが、唯一パスをすることにより相手が最善手を指しても負けを逃れることができる局面が存在することを証明するしかありません。しかし、そのような局面の存在は現実に証明されていないでしょう。証明されているのなら、そのような局面を実際に示すことができるはずです。示されないということはすなわち「証明されていない」ということなのです。--Haruno Akiha / Talk / History 2007年8月11日 (土) 11:46 (UTC) 一部加筆済み[返信]
Haruno Akiha(春野秋葉)様、あなたがどう思うかはこの際関係ないのです。囲碁のルールにパスがあることは事実であり、かつ、それは説明に値するものです。よって説明すべきです。説明は例示によることが望ましいですが、囲碁と同じボードゲーム中から例を探ると一般的なボードゲームにおいてはオセロ、五並べ、将棋等が一般的です。このうち、オセロはルールの記述の中にパスがあり、説明が長くなりますし、端的ではありません。五並べはルールが色々で、一応連珠というルールの整備されたものもありますが、連珠のルール自体2つあり、また、五並べに比べて知名度がありません。つまり、説明に手間がかかります。将棋はルール上パスが禁止されており、かつルールは公的団体によって明らかにされて、それは広く受け入れられています。また、将棋においては、手持ちという事実上パスができないためのパスの代替措置が実際にさされているという事実があり、これは説明に好都合です。よって将棋がさしあたって例示の対象となるのです。もし、将棋以上に一般的に知られていて、ルールの紛れがなく、かつ、パスについて実戦上の具体例を必要により提示できるようなゲームが存在するのであれば、むしろご提示いただきたい。私は、少なくともそのような例示の対象を見いだせませんし、Haruno Akiha(春野秋葉)様のお許しがなければ例示として将棋を使えないというのも変ですから、将棋を説明の題材として用いるのは正しいと考えます。なお、「「ある事例が存在すること」と、「そのような事例が実際に有効であるということ」はまったく別の話であり」というのは一般論としては正しいですが、ここで問題にしているのは将棋というゲームであり、「手持ちという戦術が有効でない」という命題が正しく、広く一般に受け入れられているものであれば、そもそも将棋の専門家であるプロ棋士はそのような手をささないはずであり、また、将棋をプレイするプログラムの設計に際してはそのような手をさすようにはブログムしないはずです。しかしながら、私が例示した通り、プロ棋士の対戦において手待ちを行う例は多く、また、コンピュータプログラム同士の世界大会に出場するプログラムにおいて、手待ちをするようなプログラムは行われていることがわかります。もし、手待ちが有効でないというのが、広く知られた事実なのであれば、このようなことについて説明ができません。百科事典であるWikipediaにおいては「ウィキペディアでは、人類の知識となっているものを掲載しています。まだ人類共通の知識となっていない意見を伝達する場所ではありません。」という言葉からもわかるように人類の知識となっているものを掲載するものであり、手待ちは将棋の戦術として古今の棋譜にその事例があり、現在の将棋の戦術の権威といえるプロ棋士の棋譜においても豊富な事例を示すことができ、かつ一般的な戦術として広く知られているもので、人類の知識といえますが、手待ちが有効でないというのは少なくともHaruno Akiha(春野秋葉)様の言にしか見えないことであり、かつHaruno Akiha(春野秋葉)様はその発言に対してなんらの公的なソース、事例を提示されていません。これはそのようなソース、事例がないものからそうできないと理解するほかはなく、要するに手待ちが将棋において有効ではないというのはHaruno Akiha(春野秋葉)様の個人的な研究内容の結果に過ぎないということができます。もしあなたがその事柄についての独自の調査結果をお持ちなら、その結果を通常の査読制度のある雑誌に投稿し、出版してください。それが人類の知識の一部となった時、ウィキペディアはあなたの業績について報告することになるでしょう。もちろん、査読がきちんと行われない雑誌から情報を持ってきてはいけません。
念のために言いますが、今問題にしているのは数学の一分野であるゲームの理論の定理の証明ではなく、実際に行われている将棋についての戦術の話です。将棋の解析はまだ完了していませんから、将棋でどのような戦術が有効かは実践によって知るしかないわけですが、今まで行われている実践例をもとにプログラムされている世界大会に出場するようなプログラムでも手待ちは実装されており、また、現在将棋の戦術につていは権威といいうるプロ棋士の実践例に豊富に表れている戦術を単に「パス以外のいかなる手を指しても相手が最善手を指せば必敗となるが、唯一パスをすることにより相手が最善手を指しても負けを逃れることができる局面」が見つかっていないから証明されていない、よって有効でないというのは暴論です。なお、「パス以外のいかなる手を指しても相手が最善手を指せば必敗となるが、唯一パスをすることにより相手が最善手を指しても負けを逃れることができる局面」は見つかっていないのではなく、豊富にあり、実際そのような場合に手待ちが行われるのです。ただ、具体例を出したところで、そのケースでは別の手がありうるとの主張に対して、将棋の全解析がなされていないために、そのさし方はこのような手によって不利になるという指摘はできるものの、数学的に厳密に証明するにはその手のから進められる全局面のツリーにおいて、どうかということを議論する必要があり、実際的な意味においてそれは現時点で不可能であり、かつ現実的なゲームとしての将棋において、そのような議論は意味がないからそのようなことについて行われていないだけなのです。将棋の本を買えば、どの本でも「この局面はどのような手で手待ちをするのか有効」だとか、「手待ちをするぐらいであるが、苦しい」という説明があり、その説明を有効な着手を上げて例示しています。人類の知識としては広く知られた事実であることが求められますが、数学的な厳密な証明をされていることは求められていません。百科事典における趣味、遊戯としてのゲームの話を勝手にゲームの理論の学会論文や学会発表と一緒にしないでください。
なお、こうした将棋の戦術の権威であるプロ棋士の戦術理論が実際に発現し、審査を受けるのが公式棋戦であり、そのような場で有効な手待ちがあるにもかかわらず、手待ちをしないということが有効な戦術であるということは広まっておらず、現に行われている棋戦で手待ち、手渡しが行われています。そのような例示を私は行いました。そのような例示で不十分であるというのであれば、古今の名人上手が使われてきた戦術の有効性を否定するのですからご自身で有効でないという証明を行い、かつそれを将棋界なり、学会なりで報告し、認められてください。

遅くなりましたが返答します。私は「プロの棋譜で、実際に手待ちを指している局面が豊富にある」ことは「手待ちが有効な手である」ということの証明にはならないと主張しています。「プロが実際に指しているから、その手が最善手である」というのは単なる経験則であり、科学的な証明に基づいたものであるとは到底いえません。ある局面で手待ちを指したプロの棋譜があり、手待ちを指したほうの棋士が勝ったとしても、最大の勝因が手待ちであったのか、それとも最大の勝因は別の手にあり、手待ちは勝敗に影響を及ぼさない手であったかどうかは残った棋譜を見ただけでは証明できないのです。なぜなら、手待ちを指した局面から分岐する棋譜が(少なくとも対局時と同じ条件で続けて指したものは)存在しないため、「手待ちを指した場合」と「手待ちを指さなかった場合」を同じ土俵に乗せて比べることができないからです。「プロが実際に指しているから、その手が最善手である」と割り切ってしまうのはある意味ですっきりした物の見方ですが、それは一種の権威主義であり、無批判に迎合すべきではないでしょう。
科学的に「手待ちが有効な手である」であることを証明するならば、「手待ちを指すことが、相手が最善手を指しても自分の負けを逃れることができる唯一の着手である」ことを証明しなければならないというのは既に述べましたね。私が求めているのは「手待ちを指すことが、相手が最善手を指しても自分の負けを逃れることができる唯一の着手である局面」そのものが示されることであり、「プロの棋譜で、実際に手待ちを指している局面が豊富にある」などというあやふやなデータなどを示されることではありません。 最後に、私の名前は「春野秋葉」か「Haruno Akiha」のどちらでもよいと書きましたが、常に括弧書きで両方を併記したり文字色を合わせたりする必要はありませんので念のため。--Haruno Akiha / Talk / History 2007年9月7日 (金) 21:53 (UTC)[返信]

「プロの棋譜で、実際に手待ちを指している局面が豊富にある」ことは「手待ちが有効な手である」ことの証明にはならないとは、つまり、「プロが豊富に指しているいる手」であってもことは「その手は有効な手でない」とHaruno Akiha(春野秋葉)様はおっしゃるわけですね。言われることは結局新しいことは何もなく、一か月前の繰り返しになりますから、少しまとめましょう。
  • 「パスの説明の例として将棋は有効か」 ルールが明確、パスがない、広く知られているといった条件を満たす将棋はパス有効の意味を説明するのに最適である。
Haruno Akiha(春野秋葉)様 手持ちは有効な戦術でないので、手持ちを有効なパスの代替手段とする説明は誤りであり、手待ちが将棋の有効な戦術でない以上将棋の例示は誤り。
  • 「手待ちが有効な局面はあるか」 有効な局面があると広く考えられており、これに対する反論は事実上専門家の間には存在しない。
Haruno Akiha(春野秋葉)様 手持ちが有効な局面というケースはまずありえない。なぜなら持ち駒があるから。経験的・感覚的なもので出典はない。
  • 「手待ちは有効であるとされているか」 多くの対局、プログラムで手持ちは用いられており、有効と考えられている。
Haruno Akiha(春野秋葉)様もこの点について、反論はないようです。
  • 「手待ちは有効でないと証明されているか」 証明はなされていません。また、有効でないとする考えを支持するいかなる論文、刊行された書籍、専門家の言説も紹介されていません。
Haruno Akiha(春野秋葉)様 経験的・感覚的なもので出典はない。挙証責任は書いている方にあって、こちらにはない。
  • 「手待ちが有効な戦略であることの科学的証明は必要か」 囲碁や将棋といったゲームの説明においては、これらのゲームが解析が終了していないこともあって科学的証明を与えることは事実上不可能である。しかしながら、科学的証明の有無はこれらゲームを楽しんだり説明したたりすることには無関係であるから、不要である。Wikipediaは百科事典であり、人類の知識になっていることは説明すべきである。
Haruno Akiha(春野秋葉)様  科学的な証明が必要であるとは発言されていないようです。ただ、こちらのソースが科学的な証明となっていないという反論をなさっているので、科学的な証明が必要と考えていると思われます。
結局、Haruno Akiha(春野秋葉)様は現在は事実上不可能な将棋の解析を必要とする将棋の手の科学的な証明がない以上書くことはまかりならんと言われているようにしか見えません。こちらが、科学的な証明はできないし、不要とすることには何も触れず、できないことをしない限りは認めない。自身では何の証明もしないし、ソースも提示しない。科学的レベルはおろか単なる経験則のレベルでさえ認められていない事柄を、自身の証明は一切なしに、現に単なる経験則であっても人類の知識として共有されている事柄に優先させよというのは理解不可能です。ソースを上げて、実際的に有効と考えられていると示されている事柄に対して、自身で思いついた経験的・感覚的なもので出典はないアイディアを否定されたくないがために、科学的証明がないと主張されているようにしかお見受けできません。
科学的な証明が可能で、かつ必要だと思われるのなら、まず、手待ちが有効と思われるケースが将棋のあらゆる着手の応酬において1つもないということを証明し、それを学会に投稿するなどして認められてください。手持ちが有効で実際に使われていることはすでにソースも提示され、かつ実際にそうであることについてはHaruno Akiha(春野秋葉)様は反論していないのですから。
手待ちが有効であることは、実践的に認められている事柄であり、実例が提示されている事柄です。科学的に証明されるべき事柄とは思えません。実践的に認められてもおらず、実例を提示することもできず、科学的な証明はおろか、経験的・感覚的なもので出典はないとしか説明できないようなあなたの個人的感覚でwikipediaの記述内容を書かないでください。どのように考えても、それはHaruno Akiha(春野秋葉)様の個人的研究の範囲を超えるものではないですし、また、その個人的研究の中身について反証可能な説明が全くなく、そこに一片の合理性を垣間見ることもできないのですからそれをもって記述内容を変更しろというのは無理なことです。
なお、ノートとそのソースを見るときに表示されるユーザ名が複数あるので紛らわしくないように両方まとめて書かせていただいております。AでもBでもよいとのことでしたのでA(B)と表記したとのですが、それでまずいということであればAかBのどちらが適切なのかお教えいただければ、以後はそれに従います。222.119.112.10 2007年9月12日 (水) 08:12 (UTC)[返信]
なぜ私が「プロ棋士や最強レベルのコンピュータソフトが手待ちを指している」ことをもって「手待ちが有効な着手である」ことを認めないのかというと、ゲーム理論としての厳密な定義を頭に入れているからです。ご存知のように、囲碁の記事では「囲碁では無限に対局が続く可能性があるから二人零和有限確定完全情報ゲームとはいえない(『有限』に該当しない)」という主張のもとに編集合戦が行われました。そのときに、私は「実際の囲碁棋戦では無限に続いた例はない」と主張しましたが、編集合戦を行ったIPの方は「理論上は無限に続く」と反論されたわけです。そのとき私ははっと思い知らされました。ゲーム理論としては1万の現実よりもたった1つの理論のほうが重要なのです。
以上を念頭に置いて将棋におけるパス(の代替としての手待ち)を考えますと、確かに多くのプロ棋士や最強レベルのコンピュータソフトでさえ手待ちという一見無駄な手を指しているわけですが、この事実のみをもってゲーム理論上「手待ちが有効な手である」と言い切るには根拠が不足しています。上での「無限」の例と同じく、現実よりも理論のほうが重要だからです。そこで理論武装をする必要がありますが、不足している根拠を補足するためには、「手待ちが有効な手である」と確実に証明できる例を発見することが必要となります。その例として「手待ち以外の手を指すと必敗となる局面が存在する局面」を挙げているのです。それが証明されていない以上、ゲーム理論上は「手待ちが有効な手である」ということはできないのです。--Haruno Akiha 2007年9月23日 (日) 04:35 (UTC)[返信]
何度もお話している通りです。ゲームの理論上どうかということは、囲碁の解説や将棋の説明には不要です。現に手待ちが有効でないという証明が学会や将棋界で認められていない以上その説明は取ることができません。他方、少なくとも将棋界では現在プロ棋士が手待ちをさしていることから手待ちは有効と考えられていることは明らかです。よって、将棋や囲碁の説明で手待ちが有効だというのは適切な解説です。なお、IPが変わったため利用者名を用いていますが、222.119.112.153です。
また、「ゲーム理論としては1万の現実よりもたった1つの理論のほうが重要なのです。」というのはまさしくおっしゃる通りです。しかし、百科事典の項目はその内容は多岐にわたっています。有限零和とかのゲームの理論の話をするときにゲームの理論の枠組みと議論をする必要がありますし、囲碁や将棋について説明するには囲碁や将棋の理論と枠組みを前提とする必要があります。項目によって記述するレベル内容は適切に換える必要があります。Checkthere 2007年9月24日 (月) 09:46 (UTC)[返信]

手待ちに関係する定跡を探していたら、以下のサイトを見つけました。 http://www.shogi-chess.net/senpouzukan/tactics124.htm この局面で▲4八飛または▲4六飛とするのはどう考えても手待ちですが、このサイトの製作者によれば、この局面では手待ちしかなく、また、後手にも手待ち以外の有効な手がないため千日手が必至なのだそうです。私の棋力ではわからないですが、とりあえず、ご参考までに。Checkthere 2007年9月24日 (月) 11:38 (UTC)[返信]

囲碁に於いては手待ちという言葉は使われません。また囲碁に於けるパスは「着手の放棄(いわゆるパス)は対局停止宣言であるが」とこちらにあるように、あくまで対局停止宣言であり、戦術として使うことは不可です。らりた 2007年9月24日 (月) 12:10 (UTC)[返信]

囲碁のパス[編集]

節を別にしました。
>囲碁に於いては手待ちという言葉は使われません。
そうですか、手元の解説書にそうあったのでそう書いたのですが、手待ちは将棋用語と書いたのは私ですしまあ、この件では争うつもりは有りません。
>また囲碁に於けるパスは<中略>戦術として使うことは不可です。
おっしゃる通り、「着手の放棄(いわゆるパス)は対局停止宣言」とあり、着手放棄は対局停止宣言の意味をもちますが、「通常の局面ではパス(着手放棄)は不可」とどこに書いてありますか?
着手放棄後(いわゆるパス)を行っても、相手が着手放棄しなければ着手は続きます。
Checkthere 2007年9月24日 (月) 12:49 (UTC)[返信]

「終局の申し出という意味があり」ではなく「対局停止宣言であり」とはっきり書いてあるわけであり、「囲碁のパス」=「対局停止宣言」ということは明白です。ですから対局停止を申し出る以外に使うのが不可なのもまた明白でしょう。
あと、一旦消したところに付いて。私の無闇な感情に拠る物であり、不適切な言動でした。その点を深くお詫びします。らりた 2007年9月24日 (月) 13:15 (UTC)[返信]
海外のルールを見るとたとえば、
http://go.yenching.edu.hk/chirule.htm
には
5.輪流下子是雙方的權利,但允許任何一方放棄下子權而使用虛著。
とあってパスは自由にできるようです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rules_of_Go#Play_or_pass
でも「打つかパスするか」と書いてあります。つまり、海外ルールではパスできるとするのが基本です。
この項目は日本のWikipediaですが、現在の文面では明白に日本のルールに限っているわけでもないですし、以下に述べるように「通常の局面ではパス(着手放棄)は不可」とは書いてないので、結果的にしろパスが任意のタイミングで行えるという認識で文章を書くことは一般的な囲碁の認識と大きくかい離するものではないと思います。
「着手放棄(パス)は、放棄者の対局停止宣言であり、続いて相手方もパスした場合は「対局の停止」となり、次の着手を行うことはできない。」
この文章を見る限り、相手がパスしないことを見越して着手放棄をしても、結果そのことが、放棄者の対局停止宣言となって、続いて相手方もパスした場合に「対局の停止」となることを受け入れているのであれば、着手放棄を通常の局面で行うことを禁止しているようには思えません。
そもそもそうでなければ「対局の停止(パス)」と「対局停止宣言」を別の用語で記す必要がありません。「対局停止宣言(パス)」で良いはずです。この条文の言っていることは「対局の停止(パス)」は同時に「対局停止宣言」の意味をもち、続いて相手方もパスした場合は「対局の停止」となり、次の着手を行うことはできないというだけのことであるとおもいます。
というのは旧規約では同様な文章は
第36条 終局について双方意見が一致しないときは、終局したことを認める方は、自己の着手を放棄して、相手方に着手させることができる。
とあって対局停止宣言以外についてのみしか説明していないのです。つまり以前の日本式囲碁は、
・終局は、着手放棄ではなく、終局宣言(対局停止宣言)で開始。
・終局までは着手は義務、終局確認では着手放棄も可能。
だったのが、新規約になって終局は、双方が着手放棄をしたときと変わっているので、
・終局までは着手は義務
というのも、相手が同時に着手放棄しないのであれば、続いて着手できる。つまり、事実上パスできると解するのが普通だと思うのですが。Checkthere 2007年9月24日 (月) 14:14 (UTC)[返信]
>この文章を見る限り、相手がパスしないことを見越して着手放棄をしても、結果そのことが、放棄者の対局停止宣言となって、続いて相手方もパスした場合に「対局の停止」となることを受け入れているのであれば、着手放棄を通常の局面で行うことを禁止しているようには思えません。
という解釈は丸っきり理解不能です。「AはBである。」という文章はそのまま「A=Bである」としか解釈できないと思うのですが?
その文章は「着手放棄を行うことは対局停止宣言であり、続いて相手が同じことを繰りかえした場合は終局となる。」が普通の解釈でしょう。また
>とあって対局停止宣言以外についてのみしか説明していないのです。
というのは元々囲碁はパスを想定していなかったからに他なりません。元々終局は双方の同意を持ってするものであり、たとえ打つ場所がたくさん残っていたとしても双方が同意すれば終局です。だけどそれだとトラブルが起るので双方のパスという明確な形にしたまでのことです。一つ聞きますが、実際の対局の通常の局面(終局絡みではない)でパスが為されたことがありましたか?
私からはこれ以上は申しません。あなたと議論するのは不毛ですから。無礼は承知の上で。それでは。らりた 2007年9月24日 (月) 14:53 (UTC)[返信]