ノート:成田氏

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「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」(信濃史料第10巻)の自耕斎詩軸幷序の、“岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等”の顕泰の名だけで成田顕泰としてしまっているようです。この全文を読んでみると、「岩付自耕」や「武州崎西郡」などの記述は出てきますが、忍城や成田氏に関する言葉は見えないようです。  その代わりに、「自得逍遥(自得は悠々自適して楽しむこと)」、越生に隠居して自得軒に住んだ太田道真と思われる「自得」の言葉が見えます。また、「平成洞下の明識月江老に参じて、新豊洞(良价大師の住した洞山:曹洞宗)の唱を聞く」など太田道真,道灌父子が中興した越生の龍穏寺2世となった月江正文の名が見えます。 これらから考えると、成田正等とするのは間違いで、岩付正等であり、太田正等とするのが正しいと思われます。

この文書から、忍城の存在年代を指摘することは適切ではないと考えます。 --Wifujishin会話) 2013年10月7日 (月) 00:28 (UTC) --Wifujishin会話) 2015年3月20日 (金) 04:05 (UTC) --Wifujishin会話2015年3月20日 (金) 04:13 (UTC)[返信]

成田氏の家紋について[編集]

 応仁武鑑では「五三の桐」、関東幕注文では、成田下総守が「月ニ三引里やう」と元の文書と思われるものからすれば、親類の同尾張守の紋は「三ひき割里やう」、それ以下の親類の紋が「三ひき里やう」となっています。  映画の「のぼうの城」では尾張守の紋を使っていたようですが、それには少し間違いがあったように考えます。「割」の字が入っていれば「九つ割り三つ引き」を指すと思われまが、映画での紋は、「丸の内に三つ引き」であったと思います。  表示されている紋は「月ニ三引里やう」で「竪三つ引両」ではないと思われます。 --Wifujishin会話2015年3月29日 (日) 12:09 (UTC)[返信]