ノート:忍原崩れ

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発生年(弘治2年と元禄元年)の併記について[編集]

合戦の発生時期を弘治2年(1556年)と永禄元年(1558年)の併記としました。

変更履歴を見ると、初版が「忍原(おしばら、うしばら)崩れ(1558年)」、2007年1月26日 (金) 21:37‎版で「忍原崩れ(おしばら、うしばら)くずれ(1556年~地元の資料では1558年)」となりましたが、2008年12月7日 (日) 00:49‎版で「石見銀山を巡る戦いに関しては、1556年が正しいようです」、2008年12月7日 (日) 00:49‎版で「忍原崩れは1556年発生で間違い無し」と変わってきています。しかし、いずれも特に出典は明記されておりません。私の手持ち資料を参考に、両論併記としています(湯温城陥落も資料によって異なるので、こちらも同様)。

個人的には、防長経略中の弘治2年頃に(毛利本陣は岩国)、元就自身が周防と石見を行ったり来たりするよりは、永禄元年の石見侵攻が自然かなとは思います(恐らく、史料自体が降露坂の戦いと混同しているのが原因では?)。降露坂の戦いの方も、ぼちぼち改訂していこうとは思っていますが、より詳しい資料・出典をお持ちの方がいらっしゃれば、修正・補記をお願いできればと思います。--TT mk2会話2013年4月26日 (金) 17:11 (UTC)[返信]

注意[編集]

以下、記事本文の冒頭にあったものをこちらに移動しました。--Straysheep 2007年1月26日 (金) 11:52 (UTC)[返信]

 以下の記述は投稿者が現地を訪問した際に、地元の方に頂いた資料を基に乏しい見識で書き上げたものです。軍記物の影響を受けていない代わりに、当時の資料に基づいた検証も全く受けておらず、研究者、歴史家、地元の伝承者の方々による校正・訂正・修正を大いに希望するものであります。

 そもそも、そのような軽輩が拙い筆をとるに至ったのは毛利軍が「忍原崩れ」と呼称されるほどの大敗北を喫したにも関わらず、それに関する記述がほとんど見受けられないからです。 --202.87.236.80 2007年1月26日 (金) 20:02

↑202.87.236.80さんへ改めて指摘させて頂くと、ウィキペディアは百科事典ですので、本文では項目に関する事柄のみを執筆してください。本文中に加筆、訂正などの協力者を求めたい場合は、項目下記にある
{{History-stub}}
などのスタブテンプレートを活用するか、このページのノートでお願いします。Straysheepさんによって訂正されたようなので、もし既にご理解して頂いているようなら申し訳ありません。--SHARU 2007年1月26日 (金) 13:20 (UTC)[返信]