ノート:後亀山天皇

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中宮:源信子の出典[編集]

中宮が源信子なる女性というのはどのような資料によるのでしょうか?--Gizza 2006年11月27日 (月) 10:44 (UTC)[返信]

  • Gizza さまへ。横から失礼します。papamaruchan22と申します。源信子の記載は、インターネットの系図倉庫の天皇家2(yukihotaru)にのっているようです。文書の出典はいろいろ探してますが判りません。IP執筆者の方が上記関係の方かも知れませんね。papamaruchan22 2007年2月11日 (日) 13:04 (UTC)[返信]
中宮を源信子とする出版物について、記入しました。--oxhop 2007年6月22日 (金) 14:03 (UTC)[返信]
大変ご苦労様でございました。こんごともよろしく。papamaruchan22 2007年6月24日 (日) 14:38 (UTC)[返信]

御名前[編集]

  • 御名熙成は、ひろなりとお呼びするのではなく、「よしなり」と申すようです。(出典は、1943年刊行の「皇陵新志」日本出版配給社版)papamaruchan22 2007年2月7日 (水) 14:24(UTC)
比企修『皇陵新志』皇國青年教育協会、1943年発行、でよろしかったでしょうか(古書検索より)。参考文献として本文に加えましたので、不備がございましたらご訂正お願いします。--スのG 2007年2月10日 (土) 21:10 (UTC)[返信]

ありがとうございます[編集]

訓みに関して[編集]

  • 正しくは、やはり「ひろなり」ではないかと思われます。同時代史料である「人王百代具名記」(1408年の書写)の影印を閲覧したところ、煕成に「ヒロナリ」と仮名が振られていることが確認できました。ただし、「のりなり」「よしなり」説も排除せず、異説として脚注に留めておくこととします。--宇治主水 2010年5月18日 (火) 08:24 (UTC)[返信]

「熈成王、吉野より降りて後・・・」について[編集]

「古本本朝皇胤紹運録」では、義良親王について「南方偽朝に於て君主と称し後村上天皇と号す」と、

吉野朝は南朝の正統の朝廷ではなく、陽動作戦上の見せかけの偽朝(副統・前衛・代理)であると看破している。

寛成親王については「南方に於て自立、長慶院と号す」と皇位に付いていた事を認めているが、

熈成王については、「熈成王、吉野より降りて後、太上天皇の尊号を蒙むる」と、親王でもなく、皇位に付いていた事を認めていない。

以上のことから、元中9年/明徳3年(1392年)の「明徳の和約」に於て、武家方(足利義満)は、

吉野朝(熈成王)が南朝正統の天皇でない事を承知の上で、世間を騙すための大芝居を演じた事が分かるのである。

南朝が偽朝で北朝が正統なら「講和する」必要はないのであり、

南朝の副統(前衛・代理)である吉野朝を世間には正統の朝廷と見せかけて南北講和という大芝居を演じたのである。


後亀山院(熈成王)勅使3串の神風串呂(串呂哲学研究ノート№185)


--超世志会話2020年9月27日 (日) 08:35 (UTC)[返信]