ノート:形而上学

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meta-physicsについて[編集]

meta-physics:アリストテレスの著作集の中で,「自然学(physics)」の後ろ(meta)にあったからつけられた著作名のことで,自然学の入門編,あるいはダイジェスト版である,と考えられている.--以上の署名のないコメントは、133.11.151.204会話)さんが 2003-09-17 01:26:38 (UTC) に投稿したものです。

エネルゲイアを「エネルギー」への内部リンクにしてよいか[編集]

「エネルゲイア」をパイプ使ってエネルギーへのリンクにしていいですか? --以上の署名のないコメントは、219.173.119.31会話)さんが 2004-05-03 18:13:51 (UTC) に投稿したものです。

「エネルゲイア:energeia(ギリシア語)」はエネルギーとは異なります。少なくとも、今現在エネルギーの定義に書いてあるものではあてはまるものはありません。あくまで、(書いてある通り)現実態という意味です。--hans_castorp81 18:38 2004年5月3日 (UTC)

表現の詰屈さ・難解さに関して[編集]

記事の内容そのものはさておき、表現が全体的に詰屈・難解であるように感じられます。哲学の専門家にとっては自然な文章なのかもしれませんが、あまり詳しくない人が知ろうとするには少し辛いものがあります。哲学に通じている人が、記事全体を表現だけ分かりやすく書き改めてみる、ということはできませんか?--以上の署名のないコメントは、61.199.24.242会話)さんが 2006-04-01 13:12:38 (UTC) に投稿したものです。

斜体と原語の表記を最低限に減らしてみました。文章自体はこれで理解できると思います。--Amontrue 2006年5月15日 (月) 10:48 (UTC)[返信]

『形而上学』について[編集]

形而上学という全般的な用語と、アリストテレスの著作『形而上学』は(後者に関しての叙述がもっと豊富なものになったら)別のページに分ける必要があるかもしれませんね。--Darkmagus 2006年5月14日 (日) 16:15 (UTC)[返信]

「形而上学的問題の諸例」の節[編集]

文体がひどすぎる。会話調で書くなよ。一体誰だ?会話調で大量に投稿した奴は?

「形而上学に諸問題が存在することを理解すること自体、時々困難である。」???(笑)
「...をもってはじめることにしよう。」???(笑)
「いま、我々が部屋にいることを想像しよう。」???
「リンゴは自然的対象の優れた例である。」???(笑)

例をいちいち挙げきれないほど量が多すぎる。主観的な表現も多数入りすぎている。Wikipediaは独演会場じゃあないぞ。ほとんど毎行、ダメだ。正直、最初の数行は滑稽で笑って読んでいたが、後半まで読んでゆくうちに吐き気を催したぞ。Wikipediaは中学生・高校生向けの入門書ではないぞ。こんな文体、他の項目には無いぞ。ものには程度というものがある。あまりにひどすぎるので、一旦コメントアウトさせていただく。

勿論、項目として形而上学の伝統的な諸問題を列挙することは良い方向なので、あとは文体を直すだけだ。百科事典らしい文体で書き直すべし。図書館に出向いて百科事典や哲学事典の「形而上学」の項目をよく読んでみなさい。会話調など使わずに説明できているから。

諸問題を掲載したい者が、自力で文章を書き直した部分だけ、順次コメントアウトからはずしてゆきなさい。

もし誰かが、文体も直さずにそのままコメントアウトからはずすような乱暴なことをしたら、容赦なくリバートをかけるつもりだ。それが数度起きたら項目全体に編集ブロックがかかってしまうぞ。手間を惜しまずに書き直すべし。--Mmmbbb 2007年3月19日 (月) 11:39 (UTC)[返信]

出典の明記[編集]

ちょっと色々さわってみたのですが、どうしても晦渋になる一方ではっきりしない。その理由は記事全般が「外部の信頼できる引用元から適切に引用する」というWIkipedia本来の編集方針に則っていないからだと考えテンプレートを挿入しました。私がゴニョゴニョ触った編集内容についても引用元がとくにあるわけではありませんので、「外部の信頼できる引用元から適切に引用する」ことで私の編集内容も大胆に改変して頂けることを期待いたします。--大和屋敷 2009年8月16日 (日) 15:39 (UTC)[返信]

人間味のない形而上学: 人格の特徴があると誤って見なされた[編集]

これらの主題について書いてください:

  1. 西洋の宗教は神が人である状態に明確に基づいています
  2. 研究:人である状態の基準
    • 一部の非西洋の宗教は、人間の属性を自然に帰します。
      宗教は人によって作られます。人々は通常、判断に偏っています。彼らは西洋人でなくても、人格の定義のいくつかの要素を誤って使用するかもしれません。自然には人間との類似点があると考える人もいます。自然には多くの要素があります。それらを1つずつ分析する必要があります。人と見なされるために必要な基準について、英語で書かれた非常に重要な本があります( the criteria for personhood)。非人間についての誤解における彼らの偏った用法は分析されるべきです。

--以上の署名のないコメントは、2a02:587:410c:f338:1457:d7a:841e:2cd1会話)さんが 2020-07-26 08:04:23 (UTC) に投稿したものです(Yumoriy会話)による付記)。