ノート:庄内の乱
伊集院忠棟の朝鮮輸送
[編集]『島津義弘の賭け』181頁は国元からの輸送が途絶えているという忠恒からの義弘宛の書状、229項は忠棟が朝鮮輸送に関して任務を果たさないという恨みを忠恒が持っていたという山本氏の推測の記述です。実際に国元からの補給が途絶え、忠恒が忠棟に恨みを持っていたのは事実なのでしょうが、忠棟の意志で補給を行わなかったという意味にとれる「忠恒らの再三の要請にも関わらず補給を行わなかった」と言う記述の出典にはなっていないと思われます。182項には義弘と義久が談合したということも書かれていましたが、忠棟は義久と義弘の決定を領内で覆せるほどの力は持っていなかったのでは。--模様砂漠 2008年11月13日 (木) 11:36 (UTC)
この文章を書いた紹益と申します。ご指摘の「忠恒らの再三の要請にも関わらず補給を行わなかった」と言う記述ですが、「忠棟の意志で補給を行わなかった」という意味で書いた訳ではありません。忠棟は、島津氏の中では最も豊臣政権に近い人物であったと思われます。従って、島津氏の御家安泰のためには朝鮮出兵に従うのが当然と考えていたでしょうし、必要な物資の補給も当然行うべきであると考えていたと思います。また、嫡子忠真も出陣しています。その忠棟が「自分の意思で補給を行わない」ということはありえないと思いますが、これは私の個人的な思いであり、真相は判りません。「自分の意思で補給を行わない」、「補給を行いたかったが周りが協力しなかったのでできなかった」、「財政難」、「物資は現地調達すればいいと考えていた」等色々考えられますが、確認できる史料がありません。もしかすると、島津氏が朝鮮出兵で不手際があり改易されたら、伊集院氏が三州の太守になることができると考え、わざと補給を行わなかったのかもしれませんが、島津氏が改易されればその重臣である伊集院氏も罰せられたでしょうからまずありえない話です。何れにしろご指摘の件は、「補給を行わなかった」という事実を書いただけで他意はありません。--紹益 2008年11月14日 (金) 03:00 (UTC)
- ご回答ありがとうございます。「補給が行われなかった」と「忠棟が補給を行わなかった」と「忠棟は補給を行えなかった」ではまた印象も違ってくると思います。確認できた記述は「補給が満足に行われなかった」と「忠恒が忠棟を補給難の原因と考えていた」ということだと思われますので、「忠恒らの遠征軍に対し、国元からの補給が満足に行われなかった。忠恒らはその原因が忠棟にあると考えていた。」といった趣旨の記述に修正してよろしいでしょうか。個人的意見では島津家領内の太閤蔵入地や三成領に中央政権の代官がいたので、忠棟クラスの意図的なサボタージュや勘違いがあればすぐに発覚するはずと思っております。『島津義弘の賭け』140項には文禄4年の出来事として、去年分の年貢が4万石しか集まらなかったという記述もありましたので、本当に領内調達が困難だったと思われます。--模様砂漠 2008年11月14日 (金) 10:35 (UTC)
「忠恒らの遠征軍に対し、国元からの補給が満足に行われなかった。忠恒らはその原因が忠棟にあると考えていた。」という記述でいいと思います。微妙な言い回しの差で受ける印象が大きく変わるものだと実感しました。ご指摘いただき有難うございました。--紹益 2008年11月14日 (金) 11:53 (UTC)
- 若干前後のつながりを変えましたが修正いたしました。あとciniiに庄内軍記関連の論文がいくつかあったのでリンク追加等しておきました。こちらこそお世話になりましたありがとうございます。--模様砂漠 2008年11月14日 (金) 12:40 (UTC)
「大河平山」について
[編集]「都城の大河平山で狩りの最中だったが」との記述があり、少なくとも旧都城市域には、思い当たる場所がなく、新都城市の区域かと調べてみましたが、特に見当たりませんでした。近いところでは、えびの市上大河平地区に「大河平山神社」という地名があり、おそらく、ここかなとおもわれます。であるならば、「都城の」と言うのは多少違和感があるのですが、いかがでしょうか。当時においては、諸県郡全体とか、伊集院氏の領域を「都城」と呼んでいたというのであれば分からなくはないですが(それでも、紛らわしい表現ではあります)。--Tomzo 2008年12月14日 (日) 09:29 (UTC)
庄内軍記には、「大川原山」又は「大河原山」と記載されています。また、「輿に乗った女性が忠真に伏見での事変を報せた。」と記載されたものもありますから、都之城からそう遠いところではないと思います。従って、私は、財部町の「大川原」を指すと考えています。「都城近郊の大川原山」と記載すればよいと思いますが、皆様のご意見をおうかがいしたいと思います。--紹益 2008年12月15日 (月) 01:04 (UTC)
- 了解しました。現在の日豊線「大隅大川原駅」付近ということでしょうか?そこからならば、都之城まで道のりで15㎞位なので位置関係としては納得いきます。ただ地域名として「都城の」とするのは、やはり違和感があり、「都城近郊の」とするのが適当でしょう。--Tomzo 2008年12月15日 (月) 08:05 (UTC)