ノート:平泉澄/過去ログ1

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山岡荘八が「日光東照宮が諸大名を搾取して建てられたという説を否定したのは平泉澄と某」と書いています。どこまで本当か知りませんが。以上の署名の無いコメントは、202.231.141.14(会話履歴)氏によるものです。2006-01-25 14:01:12

記事自体は充実してきたものの、加筆部分に皇国史観礼賛とも受け取れる部分も見受けられる。中立的な観点から皆さんのご意見をお伺いしたいと思います。--水野白楓 2006年7月14日 (金) 17:05 (UTC)このuser:水野白楓さんの発言は、Wikipedia:査読依頼より、IP:124.96.82.66会話 / 投稿記録転記したものです。--ikedat76 2006年7月16日 (日) 04:30 (UTC)

拝復 「加筆部分に皇国史観礼賛とも受け取れる部分も見受けられる」とは、如何なることでしょうか。そんなに「皇国史観」が悪いのでしょうか。出来るだけ中立的に、水野白楓様はじめ、各位の本文は尊重し、遠慮しながら増補させて戴いたつもりですが‥‥(苦笑)。水野白楓様は、何か「皇国史観」と聞いただけで、嫌悪感を抱かれているように拝察します。とても「中立的」とは言えないのではないでしょうか。とても「平泉澄」を、一冊でも直に読まれた形跡が見受けられません。何か批判者のみの記述を読んで、記載しているとしか思えません。公共の事典ですから、一部の方の仰る平泉批判が、「中立的」とは納得いきませぬ。世の中には門下の方や私淑されている方も大勢おられます。願わくば、ご再考を御願い申し上げます。もう少し参加訂正させて戴き、なおも我慢ならんと仰るなら、仕方ありませんが‥‥。敬白、平成18年7月14日(金)以上の署名の無いコメントは、124.96.82.66(会話履歴)氏が[2006-07-15]に投稿したものです(ikedat76 2006年7月16日 (日) 04:30 (UTC)による付記)

拝復 無断転記、まことに申し訳なく、甚だ失礼申し上げました。何卒、お許し下さい。ただ本文上欄に『中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。詳しくは、この記事のノートを参照してください。』とありますが、「詳しくは、この記事のノートを参照」しても、何も記事がありませぬ。何処が「偏った観点によって記事が構成されている可能性」があるのか、何が御気に召さないのか、一方的に仰っても困ります。御示教たまわれば、幸甚であります。謹言、白山童子、拝、平成18年7月16日(日)以上の署名の無いコメントは、124.96.82.66(会話履歴)氏が[2006-07-16 06:29:08]に投稿したものです(ikedat76 2006年7月16日 (日) 12:05 (UTC)による付記)

署名は1バイトのチルダ(~)4つ(~~~~)でお願いします。そうすると日付つきの署名に展開されます。他者の署名つき発言を引用・転載であることが分からない形で投稿することは混乱を招く恐れがあります。ご遠慮ください。--ikedat76 2006年7月16日 (日) 12:05 (UTC)


平泉博士の著作が削除されまくっている。誰がこんな編集をするのか、入力した方に失礼でしょう。何だか嫌になるねえ。戻して下さい。


今次の大改訂について[編集]

善導大師殿の手による大幅な改訂が行われました。さて、この改訂によって「中立性」について疑問を感じる方は居なくなったのではと推察しますが、諸賢におかれてはいかがお考えでありましょうか? なお、Mattamatta殿によって平泉博士の職が削られる椿事がありましたが、これについては皇學館大学再興に際して就任したのものです。大学史にて確認していますから、間違いはありません。どうも、彼の御仁は「学事顧問」がお嫌いのようで。 なお、Mattamatta殿におかれましては、本ノートを御覧のうへ、感情的にならず事実に拠って記事を改変なさるようにお願いする次第です。--前図書頭 2007年7月26日 (木) 14:01 (UTC)

スタイルについて[編集]

可読性と編集性のために節分けをしました。--ikedat76 2006年8月19日 (土) 17:02 (UTC)

編集者殿

一、平成7年30日を以て、元号が西暦に全て返還されております。如何なるご見識か、是非ともお伺いしたく存じます。日本にては「元号法」が制定され、「公式の記年は元号」であります。わざわざキリスト紀元に変更するは、日本人にとって時間空間を支配されるものと愚考します。

一、神職の死を以ても「死去」とするならば、この事典の全てに亘り、仏教僧侶の死も「死去」とするを公平と思われるが、如何でしょうか。今後も全てに亘り、変換するつもりなのかどうか、この事典の方針を、是非ともお伺いしたく存じます。かような編纂は、神道家・神職への冒涜でありましょう。 玄月書屋主人 2006年7月29日 (土) 23:27 (UTC)

まずはWikipedia:ガイドブックWikipedia:スタイルマニュアルなどをお読み下さい。 -- NiKe 2006年7月29日 (土) 23:33 (UTC)


NiKe様

早速の返答、有り難うございました。この事典に参加させて戴く以上、貴方針に従うことは当然ですね。涙を呑んで従います。然し元号・西暦併用を認めているのであれば、西暦への変換のみに終るのは如何かと存じます。編集されるのなら、元号を優先して残して戴きたい。私も「平泉澄」項目に先鞭をつけられていた御方の文章は、明らかな誤記以外は、尊重して残しておりますが‥‥。

又た宮司の「死去」に「帰幽」を使用するのは、決して敬称ではありません。仏教僧侶には「入定」「示寂」等、その他に散見されますが、これも編集されるのかどうか、お伺いしておるのですが‥‥。ご返事を戴ければ幸甚です。

玄月書屋主人 2006年7月30日 (日) 03:17 (UTC)玄月書屋主人 拝


某殿

「詳しくは、この記事のノートを参照」とあり、小生は理由を質しているのですが‥‥。返答もなく、明確な理由もなく、恣意的・一方的に編集するのは、ご遠慮いただきたい。再度申し上げる。ご貴殿は、僧侶の「入定」「示寂」等、この事典の全てに亘って「死去」と変更されるのなら、ご貴殿の編集を容認しますが、返答は如何に。玄月書屋主人 2006年8月12日 (土) 17:39 (UTC)

玄月書屋主人様、先ほどの編集は、こちらのノートを見ずに編集したため、議論の流れを無視したことになり、失礼いたしました。差し戻していただき、お手数をおかけしました。
さて、死去を示すために用いる「帰幽」の用語ですが、耳慣れない言葉であるため、「死去」と何が異なるのか、お教え願えないでしょうか?手元の辞書(広辞苑/大辞林)には立項されておりませんでした。同じ概念であるのであれば、百科事典としてより読者に理解しやすい「死去」を用いたほうがよいと思います。先に触れておられる「入定」「示寂」などは通常の辞書にも立項されている用語であり、これらとは位置づけが異なるように思います。当方のスタンスを説明いたしますと、個人的には死去と同等の概念である「示寂」については除去した方がよいと思います。入定については明らかに「死去」とは概念の異なる語ですので、置換できませんが。
また、新たな編集において、用語の説明を付与されていますが、コメントに修正してよろしいでしょうか?人物記事に当該人物本人と直接関係の無い用語説明を入れる必要性は低いと存じます。いかがでしょうか?個人的には、帰幽にて解説を書いていただきたい思いもあるのですが。。。^_^;; Masao 2006年8月12日 (土) 17:40 (UTC)
拝復、丁寧なる御返応、痛み入ります。一般的に神道人の所謂死去を「帰幽」(顕の世界から幽の世界へ帰ること)と申します。神道辞典類を見てみて下さい。御手持ちの辞書には無い由ですが、現在の辞書類が、一般的に日本人本来の宗教である神道に冷淡である証拠でありましょう。神道者は温和な御方が多く、他の宗教者なら、只では済みますまい。人の所謂死去の表示は、仏教等に配慮する以上、厳粛にして戴きたいと存じます。然し神道者にとって、天皇陛下は神様とも申すべき御方ですが、この事典では殊更に「死去」と申される由。普通は「崩御」でしょうに‥‥。どうして釈迦(釈迦族の尊者であるから、単に釈迦というのも、族名で可笑しいが)だけには、「入滅」を認めるのですか(「入定」が概念が異なると仰るなら、日本人にとっては、天皇陛下は「神上る」と申し上げます。仏教の入定を認める以上、神道の概念も当然認めて戴かないと‥‥)。一般的に敬語を使用することはしない、のは諒解ですが、皇室にも累が及ぶとは、些か日本人には馴染めませんね。貴方が普通に思われるのなら、少し偏ってはおられませんか。宗教への概念を大切にされるなら、神道へも御理解を賜りたい。宜しく御願い申し上げます。又た貴方様の編集は、もとより御自由です。しかし故人への愛が無ければ、無味乾燥な事典に終ってしまいます。貴方様が唯物論者でいらっしゃるなら、何も申し上げませんが‥‥。ご無礼の段は御許し下さい。玄月書屋主人 2006年8月13日 (日) 00:08 (UTC)
さっそくのお返事ありがとうございます。用語「帰幽」につき、解説いただきありがとうございます。当方でも市販の神道辞典を参照しましたので、その語義・由来について了解いたしました。その上で、先に提案した、「帰幽」については「死去」に改めるべきではないかとの件は撤回いたします。これは以下の2点の理由によるものです。
  1. 玄月書屋主人様のおっしゃるとおり、同様の意味を持つ他宗教の用語でもいまだ十分な合意が取れている気配がないこと。
  2. 仮に合意を取り付けたとしても機械的に用語を置き換えていくことは言葉狩り的な様相を呈しかねず、百科事典の編纂全体に悪影響を与えかねないこと。
お騒がせして申し訳ありませんでした。ちなみに、私は2つの理由のうち前者については、なんらかの合意が取れているものとてっきり誤解しておりました。 Masao 2006年8月14日 (月) 03:43 (UTC)

JA:WPはWikipediaの日本版であって、日本版でも日本文化版でもありません。編集方針上の相違を「日本人なら当然」「日本人なら普通」の類の恫喝まがいの“理由”で押し切ろうとしたり、論争相手を「貴方が普通に思われるのなら、少し偏ってはおられませんか」等と述べたりすることは、基本方針(WP:NPOVWP:PA)に反する可能性を指摘しておきます。また、無味乾燥云々と言っておられますが、大前提としてここは百科事典であり、記述には客観性が求められるのは当然のことです。--ikedat76 2006年8月19日 (土) 17:02 (UTC)

削除したほうが・・・[編集]

 所功を平泉の門下としていますが、誤りだと思われます。所は東京帝大出身者ではないし、平泉の私塾青々塾の塾生でもありません(所は平泉の弟子である田中卓が主宰した「伊勢」青々塾の塾生です)。所は、千早鍛錬会には参加していますが、それを含めてしまうと参加者全員が平泉の弟子になってしまいます(まさかそんなことで平泉の弟子とはしていないと思いますが)。所が平泉の弟子とする所以が何かあるのでしょうか。私の一存では削除いたしかねますので、ご教授くださいませ。--山冪寒雲 2006年12月5日 (火) 15:19 (UTC)

 所功博士は、平泉博士の直門です。『靖國の祈り遙かに』(平成十四年七月・神社新報社刊)等を参照ください。田中卓博士は、伊勢青々塾の塾頭でしょう。田中博士は、所博士の先輩です。平泉博士ご存命中の青々塾生は、平泉博士の直門とすべきです。もっとも青々塾は、「来る者は拒まず、去る者は追わず」ですが、塾出身と申しても、平泉博士の門弟とは限りません(藤原弘達の如き)。むしろ坂本太郎博士(東大の後輩)・家永三郎博士(同上)・大原康男氏(葦津珍彦の門か?)を削除すべきではないでしょうか。尊敬と門下とは違うと思います。

 皇学館大学学事顧問を、どうしても最初の定義のところに書きたい人がいるらしい。経歴の中でふれるのはいいけど、その役職についたことはどの辞典類を見てもまず載ってない。その程度の役職を第一段落にあげんのはいかがなものか。皇学館贔屓も行き過ぎです。--Mattamatta

御貴殿は田中卓博士の項目でも似たようなことを書いて斥けられていますね。戦後の平泉博士の職歴を御覧になれば、その意味合いが分るかと思いますが。どうして、皇學館贔屓という発想が出てくるのか、大変に不思議です。どうも御貴殿は田中博士の学事顧問辞任を「学内政争」と想像されたり、たった一つの本に書いてあった「皇學館はかつての皇學館ではない」論に入れあげて記事を改変したり、勇み足が見られます。最近、別項でもノートでの合意を無視して著述を削除されるなど、大活躍のご様子だが、そういった行動はいかがなものかと考えます。--前図書頭 2007年7月26日 (木) 14:13 (UTC)

主要な辞典類、あるいは近刊のミネルヴァ評伝選を見ても、そのことは載ってない。自身執筆の『寒林年譜』も同様。建国大学の創立に関わって後に名誉教授となった、とか、より優先されるべき事項がある。皇学館の人にとっては誇りに思っているのかも知れないが、平泉の生涯において、その重要性は低いのでないか。戦後の活動でも、他に優先すべき経歴が多数ある。--Mattamatta

  • そうお考えなら、どうぞ「優先すべき経歴」を加筆なさったら宜しい。なぜ、平泉博士の経歴から「学事顧問」を消そうとするのか疑問です。もしも、どうしても消したいなら、現時点での御貴殿の管見の範囲を超えてきちんと精査をなさったうえで「学事顧問に就任していないという事実」を証明なさったら宜しい。御貴殿は田中卓博士の項目でも必死で皇學館を貶めようとしておいででしたが、こうやって江戸の仇を長崎で式のなさりようは御貴殿の品性に疑いを生みますから、もう少し熟考されても良いのではないかと考えます。--前図書頭 2007年7月27日 (金) 12:35 (UTC)

私が皇学館を貶める者、と貶めようとするのは勝手だが、私は田中卓が学事顧問に就任したことを田中卓に書くのは、自身の著書の経歴欄にも書いてることなので反対してません。 繰り返すが、平泉の場合、皇学館の大学史に載っているとのことだが、主要な辞典類、伝記、平泉自身が履歴を記した本、門下田中卓の編著に掲載された年譜、などなどどれにも載ってない事項を、まず真っ先に項目定義の欄に載せたがるのはどうか、と提議しているだけ。大学つくったのなら別だが。経歴の中に載せるのは別にいいと思っている。皇學館大学の人物一覧に、麗々しく学事顧問の一覧を載せているのも否定はしない。それを平泉澄の項目にいの一番のあげんのは見識がない、と言っているまで。誤解しないでください。--Mattamatta 2007年7月28日 (土) 03:47 (UTC)

辞典は著作目録を書くところではありません。[編集]

むやみやたらと駄作の類も列挙していますが無意味です。 「門下生」をやたらめったら列挙している人もいますが笑止千万です。


「駄作」とは、何ぞや。「無意味」?「笑止千万」? その根拠を示しなさい。


どうも著作を消去したくてたまらぬ、偏執者がいる。こんなことが許されるのかな。ちゃんと厳選しているではないか。

評価について[編集]

田中卓氏の著述の引用が大幅に削減されましたが、どうも読み違えているように思われます。 田中氏の言ふ「健全」の解釈について、諸賢の御判断をいただけると助かります。私個人としては、現行の解釈は間違いと思います。

  • 田中卓氏の著述の引用が大幅に削減されたのは、「中立」の名をかりて、平泉澄博士をおとしめたいためである、とにらんでおります。引用文の論旨を、180度かえてしまっている。そのうち毀誉褒貶のうち、巧妙に毀貶のみになってしまうでしょう。引用文の復活を希望します。復活させても、ま、即行にて削除されてしまうでしょう。


 もう少し客観的な記述にならないでしょうか。「しかしこれとても網野や黒田の力量によるところが大きい。」とか「歴史に忠君愛国的な美化や評価を求め、アカデミックな判断基準にさほど興味のない、一般の人々」などは単なる個人の印象にすぎないのではないでしょうか。何をもって学問的な価値を判断されているのか。また、専門分野の学術書と思想的な啓蒙を目的とした一般書を同列に評価して意味があるのかなど疑問が残ります。


 忠君愛国という価値観は近代に発生したとの御指摘がありましたが、平泉の場合は、むしろ近世的な価値観ではないでしょうか。思想史の方面から平泉を研究した「丸山眞男と平泉澄」によると、平泉の思想的な基盤は、崎門学とくに谷秦山の系統のものだということです。確かに忠君愛国思想が一般化したのは近代以後のことですが、思想そのものは、崎門学や水戸学などの近世思想に既に現れています。実際、平泉の仕事の中には、「日本学叢書」などの忠君愛国思想の先駆者を発掘・顕彰したものが数多くあり、彼の門下に崎門学や水戸学の関係者がいるのも頷けます。--61.193.114.128 2007年8月26日 (日) 16:29 (UTC)

逸話について[編集]

諸賢には、中立的な観点を維持するように心掛けて下さいますよう、お願いします。逸話と評価は違います。--前図書頭 2007年6月29日 (金) 16:43 (UTC)

記述に出典を示してもらいたい[編集]

特に「逸話」の項での「この話は家永三郎の証言による」とか、「これは玉村竹二の証言による」と言うような書き方止めてもらいたいですね。その証言と称する物がどういう文献のどのページあるいは章・節に出ているかを示さなければ、出典を示した事にはならず、情報としての価値がありません。--Kogane 2007年7月9日 (月) 11:34 (UTC)

  • そこまで出典の提示に拘るほどのものかと疑問が残りますね。逸話と評価は微妙に違うと思いますし。そこまでやりだしたら、ウィキは『古事類苑』になってしまうのではないですか?どうしても出典提示に拘るなら、逸話のみならず全ての項目に出典の明示が求められるかと思いますし。逸話については、諸賢が目を通して妥当な記述になりつつあるとの認識を私は持っています。貴殿は記事の信憑性を疑われているようですから、精査のうえで信憑性を検証なさいましたら、お手を加えられると宜しいでしょう。--前図書頭 2007年7月25日 (水) 14:05 (UTC)
  • 記事の情報ソースを示すと言う事は最低限の事で、「そこまで」と言うほどの作業量ではないでしょう。「逸話」の項に書かれた記事が投稿者の創作ではなく、何らかの情報ソースに基づいているのなら、投稿者が自身の記事の出典を示す事は簡単な事です。それに情報ソースの提示は投稿者に第一の責任があるのであって、私が精査することではありません。Wikipediaでは出典の明示は推奨されているし、検証可能性の項目には「信頼できる情報源からすでに公開されている情報を記載する事により、読者が検証可能にする」と明記されているではありませんか。この点で、現在の「逸話」の記事は内容の確認の方法が無く、読者が利用する上で不充分な記述だと思います。--Kogane 2007年8月11日 (土) 04:04 (UTC)
  • 年譜をつけただけで記事全体の「「中立性」について疑問を感じる方は居なくなったのでは」と意味不明な解釈。また、平泉とは他の記事で、研究者の発表論文については容量を考える必要なく事実ならすべて削除すべきでないと主張するわりに、出典の明示は「『古事類苑』になる」=おそらくは詳しくなりすぎるから要点のみあげればいいと言いたいのでしょう。略歴などの事実事項と違って逸話はその信憑性や話の出所、その話をした状況等が問題とされるし、辞典類でも逸話のたぐいに何の本によるか書いているものはいくらでもあるが、それを余計とみるか親切とみるかは見る人によってまちまちで両方の場合がある。執筆論文を全部載せることこそ要点(主要論文)のみあげればいい。「独断専行は阻みます」というわりに、「諸賢が目を通して妥当な記述になりつつある」という判断こそ独断・主観にもとづいたもののような気がしますが、そのような判断で中立的観点についての注記を削除。他人の意見を軽視する前図書頭さんの一連の判断基準自体よくわかりません。Koganeさんの指摘に別に間違えはない気がします。--Mattamatta 2007年8月17日 (金) 20:00 (UTC)
  • Mattamatta様の仰るとおり、善導大師様は年譜を付けただけですね。それを以て「大増訂」「中立性を保てた」とする前図書頭様のご意見は一寸可笑しいと思います。Mattamatta様のご意見は尤もなことだと思います。--六甲颪 2007年8月21日 (火) 09:42 (UTC)
    • 前言を撤回いたします。Mattamatta様のご発言に惑わされるところでした。善導大師様の改訂は年譜のみではなさそうですね。著書の項目の整理と、略伝を付されています。しかもこの略伝は、以前のものと比べると、かなり忠実的なものだと思われます。おそらくは、若井敏明氏の著作を中心にして記載されたものと思います。7月1日の版と善導様が改訂された7月26日の版を「履歴」で比較すれば明らかなことです。もし、履歴の見方がご存知でなければ教えて差し上げますがいかがでしょうか。--六甲颪 2007年8月21日 (火) 10:03 (UTC)
    • ごめんなさい。「年譜をつけただけで記事全体の「「中立性」について疑問を感じる方は居なくなったのでは」と意味不明な解釈。」は撤回します。--Mattamatta 2007年8月21日 (火) 10:36 (UTC)
      • Mattamatta殿の書込みは屡私怨に発したもので、方々の項目において私以外の方とも衝突なさっておいでの御様子です。どうもMattamatta殿は御自分が「主要論文」を選別なさるお力を備えておいでと自負なさるようですが、今回の善導大師殿の改訂問題一つとっても理解力と分析力に疑問を感じます。Mattamatta殿のお書きになったものについて、いつも思うのですが、もう少し熟考されて、言いたいことをまとめてから、投稿なさいますよう。なお、言葉の使い方に御注意下さい。Mattamatta殿からいただいた御批判を読みますと、私への怨恨が透けて見えますが、これが何に発するかは、貴殿の履歴を見れば瞭然でございます。「容量を考える必要なく事実ならすべて」など悪意の介在する要約をないますと、貴殿があちらこちらの項目でなさった「執筆論文削除運動」の失敗などを下敷きにしているのであろうと、勘繰られることになろうかと思います。Mattamatta殿の名誉の為に老婆心より申上げます。--前図書頭 2007年8月21日 (火) 22:49 (UTC)
  • 「逸話」について無関係の(しかし、重大な)問題提起がなされましたので本題が停滞いたしました。逸話の出典明記について私の意見を申上げましょう。まず、私が手を加えた「豚に歴史は…」の逸話は中村吉治『老閑堂追憶記』に典拠を求める事が出来ます。「君は用いず」の逸話は、典拠を失念しましたが、今検索したところ『一歴史学者の歩み』に記載されるとの事です。さて、「逸話」は「評価」によく似ています。しかし、逸話は評価と違い、あくまで「お話」です。証言者が間違いなく証言しているが、それは「お話」に過ぎないと思います。よって、末尾において私は「こういった逸話の多くは後に作られたもので、事実ではないという指摘がある」と特記した訳です。逸話はあくまで「お話」というスタンスで、評価に直結するものではないのだという思いが私には有ります。さて、ならば逸話など事典に載せない方が良いかとも思い、一度は逸話という項目自体を消すことを考慮しましたが、思い直しました。平泉博士のような毀誉褒貶ある、語弊を恐れず言えば「面白い」人物はそう多くありません。逸話を抜きにして平泉博士を語るのは、虚実混淆の逸話が横溢する実情から考えても、むしろおかしなこととならぬか…と思ったのです。そういった次第で、私は逸話の項目には、虚実混淆の「逸話」を収録したものであるというスタンスで、評価とは違った観点を提供する場と考えているのです。ならば、ここに厳密な出典を求める程のことかと思うのです。寧ろ、逸話以外の項目でこそ「出典明示」が求められるべきかと思います。すると、ウィキは『古事類苑』になります。先の投稿で書いたように、もし「逸話」の信憑性が証明されたら、それは手を加えて評価に織り込むなり、削除するなりするべきかと思います。--前図書頭 2007年8月21日 (火) 23:18 (UTC)
  • まず、ここで求められているのは、「逸話」記事の内容の信憑性を確認することでは無く、記事の情報源(出典)を明記することです。「信憑性」の追求は、禁止されている「独自研究」に該当します。また、記事が「お話し(?)」に過ぎない「逸話」であるか、あるいは平泉博士の「評価(?)」に結びつく物かといった事は、記事の情報源を明記するしないの判断とは何の関係もない事です。もちろん、他の項目や記事でも出典が不明確な物が多くあるのは事実です。しかし、不十分な内容の記事が他にもあるからと言って、同じことを繰り返してよいなどと言う理屈は成り立ちません。また、繰り返しになりますが、出典を示す責任は、掲載を希望する側(投稿者)にあると、「Wikipedia:検証可能性」のページに明記されています。自らの書いた記事の出典を明記する作業を、他人が手を加える事などと主張するのは変な話しです。--Kogane 2007年8月22日 (水) 04:43 (UTC)
    • そういった御意見はよく理解いたしました。信憑性の追求が禁止されていると仰るのについては、程度の問題かと思います。また、出典明記の規定も、Kogane殿が仰る程に厳密なものとは思っていません。それは「Wikipedia:出典を明記する」を読んでいただけると御理解が得られるかと思います。これを読む限り、Kogane殿が仰るように全ての記事に逐一出典が明記されるという状況を目指している訳ではないと、私は理解しています。最初にも書いたように、多くの人の修正を経て、逸話の記事についてはかなり良識的なものに収まりつつありますし、出典を逐一提示せよとまで言わなければならぬほど「真偽を巡り対立が生じると思われる記述」にはなっていないと思います。出典を示すのは(先に挙げた例を御覧になられても御賢察いただけるように)容易なことですが、私はそこまでするべきなのか少しく疑問を持ちます。この場で諸賢の活発な御意見を乞いたいところです。--前図書頭 2007年8月22日 (水) 10:31 (UTC)
  • 出典の明記は、「真偽を巡り対立が生じると思われる記述」になりそうだから行なうのではありません。ウィキペディアの執筆の基準は、「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」であり、(読者が)信頼できるソース/情報源を参照することにより「検証できる」内容になっているかどうかにありますWikipedia:検証可能性。少なくとも「逸話」の項目は、この要件をまったく満たしていません。また、「独自研究」を載せないという方針は、「程度の問題」ではなく、極めて明確な規定です。「逸話の記事についてはかなり良識的なものに収まりつつあり」と言うご意見も、「良識的」の意味が不明である点もさることながら、投稿者の自画自賛に過ぎず、「読者」の視点が置き去りにされているのではないかと感じます。要は百科事典とは何かという基本に立ち返り、記事を読む読者にとって有用な情報提供となっているかどうかを考えるべきです。ここは百科事典であって、投稿者が自由なスタイルで平泉博士の伝記を執筆する場ではないのですから。--Kogane 2007年8月22日 (水) 11:58 (UTC)
    • そうKogane殿がお考えなのは了解しています。ここは百科事典であって、投稿者が自由なスタイルで平泉博士の伝記を執筆する場ではないことについては同意です。が、「検証可能かどうか」についての見解は私とKogane殿では食い違いがあるようですね。検証可能であるために出典を明記するのは一つの方法です。しかし、唯一の方法ではありません。そのために出典明記は「考慮されるべき」ものとして規定されているのではないかと思いますし、ゆえにKogane殿御自身も述べているように「他の項目や記事でも出典が不明確な物が多くある」のです。何れにせよ、諸賢の意見を聞くべきですね。それと、別に御貴殿が出典の明示を独自になさっても阻む気はありません。それが間違っている場合は別ですがね。私が手を加えた記事について、殊更出典明示の要は無いかなと考えている次第です。--前図書頭 2007年8月22日 (水) 12:35 (UTC)
      • 「検証可能」についての述べた部分は、私個人の見解ではなく、Wikipediaの方針として明記されている内容であって、私の創作ではない。検証可能な記事の要件は、出典を明記する以外に方法はなく、少なくとも、現行の「逸話」の記事は、検証不可能です。私が「逸話」記事の出典を付す作業を代行しようにも、それは事実上不可能に近い。なぜなら「逸話」の項目の記事が検証不可能で、私には記事の出典を確認する方法がないからです。また「記事について、殊更出典明示の要は無い」と申されておられますが、その判断は、投稿者の立場ではなく、読者の立場になって考えるべきと思われます。--Kogane 2007年8月22日 (水) 19:46 (UTC)
  • なるほど。Kogane様の仰るとおり、出典を明記したほうが穏当であると思いますね。閲覧者に検証の機会を与えるわけですからね。しかし、日本語版ウィキペディア40万余の項目のうち、Kogane様が仰るように出典を明記した項目がどれだけあるでしょうか。管見に及ぶ限り可成り少ないのではと思います。Kogane様の投稿履歴を拝見しますと、多方面において活躍しておられると推察いたしますが、Kogane様が参加された項目においても出典をしっかりと明記した項目は少ないように思います。是非とも、「出典明記」をお願いする旨を書いていただき、出典が明記された記事作りに邁進していただきたく存じます。管見の限り平泉澄の項目のみに「出典明記」のことをお書きになっているようなので。今までの議論を拝見する限り、Kogane様は厳密な記事をお好みのようなので、重ねて多項目においても「出典明記」の運動を展開してくださいませ。でないと、平泉に特定の感情があるからといらぬ勘繰りをされるかもしれませんから。あと、Kogane様が2005年9月27日に投稿された西郷隆盛の項目内の「伝説と風聞」、台湾に西郷の子孫ありの項において、出典が明記されておりません。お気づきとは存じますが、是非とも増補してくださいませ。--六甲颪 2007年8月22日 (水) 13:59 (UTC)
  • こういう事は一つ一つ善処していくしか方法がないと思います。「あそこがやってないじゃないか」、「みんなこうやっている」と言い出して自己を正当化していたらきりがなく、検証可能な記事の充実は進まないでしょう。今ここでの争点ははウィキペディアの方針の是非ではありません。議論を拡散せず、本項目の「逸話」の記事の内容の充実に論点を絞るべきでしょう。--Kogane 2007年8月22日 (水) 19:26 (UTC)
    • 六甲颪殿の指摘は重要でしょう。Kogane殿は、他者の投稿を云々する前に、まず自らの投稿について検証なさるべきでしょうね。Kogane殿の顰にならうなら、西郷の子孫が孫の代まで台湾に居たという説を私は検証できませんから。これまたKogane殿の顰にならうなら、不十分な記事があるからと、自分も同じことを繰り返してよいと言う理屈は成り立ちませんよね。まず、Kogane殿御自身で出来る事から一つ一つ善処して下さい。…これ位にして置きましょう。Kogane殿、これは議論の拡散ではなく、各自の編集方針の問題なのです。貴殿が再三述べている「検証可能性」の定義は「公開されている情報を記載する事により、読者が検証可能にすること」としています。それが担保されない例として、ウィキの規定では「X理論の誤り」を例示していますが、つまり出典明示が至上命題なのではなく、「すでに公開されている」情報であることが大切なのです。私がこうまで「逸話記事への出典明記」に反対するのは、最初にも述べたようにウィキの『古事類苑』化を防ぎたいからです。Kogane殿も自己紹介に「歴史をする」と書かれているなら御存知でしょうが、『類苑』は極めて優れた百科事典です。ウィキとは大きく異なったスタイルを持ちます(詳しすぎる…という意味ではない事は御理解いただけていますね?)がね。六甲颪殿の指摘の如く、日本語版ウィキペディア40万余の項目の中で出典明記が徹底した『類苑』タイプの記事は極々少数です。もし、Kogane殿の指摘を是として私が記事を改めたなら、私は幾十万の記事に対して「出典明示運動」を興さねばなりません。Kogane殿は平泉の記事のみを変えれば良いとお考えかも知れませんが、それでは公正な態度とは到底いえません。平泉の記事にのみ厳密な出典明示が求められるのはおかしな話です。私は私の良心に従い、斯様なことは致しかねます。よって、出典明示を徹底なさるなら、私はこれに加わりません。--前図書頭 2007年8月22日 (水) 21:42 (UTC)


  • 私も完全ではありません。小生の執筆部分にに問題があるのなら、該当部分の記述を削除されてけっこうです。編集権は誰にもあるわけですから異論はありません。誤解が無い様に言っておきますが、私は「逸話」記事に難癖を付けているわけではありません。記事内容は興味深く読みました。さらに充実を図りたいと考えているだけです。記事の情報ソースが独自研究ではなく、「すでに公開されている」情報に基づいている事が大切だからこそ、それを示す出典の明示が求められるのです。現行の「逸話」の記事では、読者はその辺を確認する方法がありません。引用記事の典拠を示すと言う事は、一般の論文等でもごく普通に求められる事です。たかだか数行の「逸話」の記事に出典を付したところで、何か深刻な問題が本項目にもたらされるとは思えません。脚注機能など、便利な機能もあるわけで、記事構成の上で支障など生じないでしょう。記事の充実を図ろうとする建設的議論が、どうして「出典明示運動」などにつながるのか理解できませんし、前図書頭さんがなぜ頑なに記事の出典を示す事を拒まれるのか、結局はっきりした理由の説明もなく、よくわかりませんが、何が何でも嫌だと言うのならもう結構です。いずれにせよ、記事の執筆は、読者の立場にたって考えると言う基本点を忘れない事が肝要でしょう。--Kogane 2007年8月23日 (木) 00:04 (UTC)
    • 御貴殿が自らの執筆部分を省みて、自らの言説に矛盾しているとの結論に達したら削除されたら良いことです。私はそういった「出典明示運動」に賛成しない立場を取るということを重ねて申上げます。よって、御貴殿が出典を明示せずに西郷の伝承を書いても私は別段削除の必要を感じません。次に、私が逸話の出典明示を拒む理由については明確にお示ししています。私はダブルスタンダードな活動を進んでしたいとは思いません。また私は、少なくとも本項目における逸話記事に出典明示の必要性を低く考えています。御貴殿の論を容れるならば、六甲颪殿の指摘した如く、幾十万の項目の全ての記事に対して出典の明示を求めるのが筋になります。私は筋を論じているのであって、個を述べているのではないのです。御貴殿は筋を擲ち個を重視なさっておいでです。それを否定はしません。寧ろ、良いことなのかも知れません…御貴殿の記事にも出典明示がないという現実を無視すればですが。よって、御貴殿が出典を書き加えられるなら、別に本項目の逸話記事のみならず、別に反対はいたしませんと申上げています。最後に、御貴殿は私の言説を批判して「投稿者の自画自賛」とまで仰いましたが、「私は~と認識している」といった風にいつも述べていると思います。常にここは議論の場と弁えて独断的な表現を避けるよう注意しています。かかる場で御貴殿のような物言いは少し穏当でないと思いますし、頑なな御貴殿の態度は些か遺憾です。--前図書頭 2007年8月23日 (木) 08:14 (UTC)
  • Mattamatta殿は本当に面白い。出典を明示しようと呼掛けたKogane殿を支持して、私を批判していたと思ったら・・・。今度は自ら出典を明記せずに逸話を増やしている。結局、Kogane殿の意見へ賛同などしていなかったと言うことか。私は論争相手とはいえ、Kogane殿の見識には敬意を有しているが、同心したかに見せかけておいて、逆の行動をとって恬として恥じないMattamatta殿は、実に興味深い。--前図書頭 2007年8月23日 (木) 21:53 (UTC)

ここでの議論もふまえると、特に強制はしないとのこと。平泉澄の記事内の統一をはかれば、こうなります。同一記事内に、出典の詳しいものと示さないものが混同していては、不自然でしょう?--Mattamatta 2007年8月24日 (金) 05:07 (UTC)

  • 強制はしないという認識は正しいですが、疑義が出た場合は、下のように検証するのは当然と思いますよ。Kogane殿と私あるいは六甲颪殿の議論は、真偽を問うものではなく、あくまで編集方針をテーマにしたものです。勘違いなさいませんように気をつけて下さいね。--前図書頭 2007年8月24日 (金) 08:50 (UTC)
    • ここでの議論を拝読したところ、「逸話」のぶぶんは出典が必要であるというのが多数意見ですし、出典の明示はウィキペディアでもルール上求められていることですから、逸話の部分は出典不十分ということでいったん削除しますね。ま、ちょっと冗長すぎる部分でもあるし、全体の記述を整理するという意味でもそのほうがいいと思いますね。--220.107.222.82 2009年1月17日 (土) 07:22 (UTC)

Mattamatta氏の改訂に対する疑義[編集]

議論が為されていた逸話の記事について、表記人物による改訂が行われたが、信憑性に乏しい。よって氏は、ここで真偽を明らかにし、疑惑を除去せられたい。なお、出典の本文への付加は必ずしも要なしと思ふも、信憑性に対して疑問ある場合は、これを説明し典拠を明らかにする事を必要とするやに思う。私の調べにより、同氏の書いた逸話記事の中で不適当と思われる箇所は修正済みなり。同氏、これに不満なれば、この場にてしっかり証明を立てるべし。--前図書頭 2007年8月23日 (木) 22:07 (UTC)

  • 前図書頭様の修正、ご苦労に対し、敬意を表します。
  • ご丁寧にどうも。平泉についての基本的文献に紹介されているので不要と思いましたが、ご存じないとのことなので、証言者を明示しました。これでなおご不満があるならば、「出典」を示します。そうすると、あなたの言う「出典明示運動」につながりますけどね。ついでにいえば、証言者を示していない他の逸話を削除なさらないのはどういうことでしょう。まさか「信憑性」の基準は前図書頭さんがご存じかご存じでないか、という訳ではありますまい(笑)。--Mattamatta 2007年8月24日 (金) 05:05 (UTC)
  • 要するに、私が基本的文献と考えても、ご存じない方がいる。あなたが周知の逸話と考えても、知らない人もいる。前図書頭さんが知らない逸話は削除し、知っているものは出典の明示を拒否する、というのは独断的です。逸話については出典を明示する方針でいいのではないでしょうか。現段階では、全体の統一を考えてそれがかなわず、遺憾です。--Mattamatta 2007年8月24日 (金) 05:47 (UTC)
    • 以上の記述ですと、また私怨とみられそうですから、私が追記したものの出典を明記しておきます。
      • 北山茂夫「東京から横浜へのある断章」『奈良朝の政治と民衆』高桐書院、1948年
      • 林健太郎『移りゆくものの影』文芸春秋、1960年
      • 出隆「出隆自伝」『出隆著作集7』勁草書房、1963年
      • 色川大吉『歴史家の嘘と夢』朝日新聞社、1974年
      • 今谷明「平泉澄」『20世紀の歴史家たち(1)』刀水書房、1997年
      • 昆野伸幸「平泉史学と人類学」『季刊日本思想史』67、2005年
      • 社会経済関係雑誌云々は、若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年を参照
    • 他の方が追記したものは、「私の調べにより」出典がわからず検証できませんので、「信憑性に乏しい」。この場でしっかり証明を立てませんと、削除対象となります。・・・閲覧者一人が出典がわからなければ削除してよいというあなたの方針では、結局、逸話はすべてに出典を明記しない限り、自己矛盾に陥りますよ。素直に認めて、よりよい記事を目指しましょう。--Mattamatta 2007年8月24日 (金) 06:21 (UTC)
  • 御自身の失態をよく糊塗した素晴らしい言訳です。何時もどうり御貴殿の言説は論点がずれていますが、御貴殿の恣意が記事に混入しなければ私はそれで満足ですし、私の意見も全く変える必要を感じません。ウィキは駆引きの場ではありませんからね。まぁ、しかし。これまでの御貴殿の投稿から、御貴殿の記事は基本的に疑わしい(故に精査を要する)と思っていた私の先入観が、今回は外れていたことについては素直に疑って失礼したと申上げましょう--前図書頭 2007年8月24日 (金) 08:48 (UTC)
    • 平泉自宅の横額や二・二六事件、著書を頭におしいただいていたという話は、私は何を見てそれを確認すればよいかわかりません。玉村竹二や竹内理三の談は、どの本を見て私はそれを検証すればよいかわかりません。あなたの疑義と同列と思いますが、これらについては、投稿者の投稿履歴を見て「基本的に疑わしい(故に精査を要する)」かどうかを判断しろ、ということでしょうか。それでも私がこれを求めることは筋違いなのでしょうか。あなたには求める権利があり(しかも記事を削除)、私には求める権利がない、というのは不公平です。私が何を出典とするのか疑問をもった逸話も、ここに出典が明示されるまで削除してしまってよい、としか聞こえません。--Mattamatta 2007年8月24日 (金) 09:54 (UTC)
      • そう聞こえますか?私にはそう聞こえません。ま、御貴殿の投稿の信頼性については、私のみならず疑念を抱いている者は多いと確信していますが。横額の話は有名なエピソードで、丸谷才一が『文藝春秋』誌上で発言したものと記憶しますが、この話は噂話の類として流布していますね。雑誌の撤去の話は失念しましたが、検索したところ、『庄内藩』(吉川弘文館)ということです。確か、田中卓博士の著書でも述べられていたと思いますが、御貴殿は基本的文献に精通されていた筈ですがね。・・・御貴殿、本当に調べてみましたか?まあ、宜しいでしょう。そう言えば、今調べたところ、御貴殿はあれですね。ウィキに限らず御活躍の御様子ですね。結構なことですが、あまりに思想が勝ちすぎていますね。--前図書頭 2007年8月24日 (金) 11:03 (UTC)
        • 出典をお示しいただいた事項については感謝します(なお私は「社会経済関係雑誌云々は、若井敏明『平泉澄』ミネルヴァ書房、2006年を参照」と申し上げており「本当に調べてみましたか?」は不当な批判である)。当然ながら、あなたの言う基本的文献(「田中卓博士の著書」ですか)と私の言うものとは異なります。もちろん私は自身見たものが基本的文献だといったまでで精通しているとは一言もいっていませんが、それはおいといて。その他の事項についても出典明示を希望します。--Mattamatta 2007年8月24日 (金) 11:16 (UTC)
    • もう、すつかり私への私怨で出典を求めているようですね。いい加減になさい。見苦しい。--前図書頭 2007年8月24日 (金) 11:22 (UTC)

前図書頭氏へ断固抗議[編集]

  • 「御貴殿の記事は基本的に疑わしい(故に精査を要する)」ので削除した、などというのは言語道断。私の投稿は、出典を明示しない限りすべて削除ということですか!?あなたの検証も、限界があります。その検証に耐えられなければ削除、などという独断が許されてよいのでしょうか。同時に、私の検証にも限界があります。あなたと同じようなことをして、あなたはそれを認めますか?--Mattamatta 2007年8月24日 (金) 10:57 (UTC)
    • まぁまぁ、御貴殿は現実に善導大師殿の改訂を「年表いじっただけ」みたいに罵倒してみたり、皇學館の一教員の著作みを信じて「皇學館は変わった」と主張して恣意的な改訂を行ったりなさっているではないですか?著作目録を削りたいばっかりに、無関係な研究者のノートにまで出かけて投稿をして回ったり、自分は研究者の「主要論文」を選別できると思っているとしか考えられない発言を繰り返したり。個人的な恨みを抱いて投稿を行ったり。Kogane殿に賛成したかと思ったら、それに反する投稿を行ってみたり。連続してそんな事をしていたら信頼を失って当然でしょう。少なくとも私は御貴殿を信頼していません。正直、御貴殿をアラシなのではないかと疑っている位です。別に御貴殿の抗議など何とも思いませんが、ここは思想信条を示す場ではない事を弁えて今後の投稿を下さいね。大事なのは御貴殿の投稿が「よい百科事典」に繋がることでありますから。--前図書頭 2007年8月24日 (金) 11:16 (UTC)
      • 「よい百科事典」として、私も言っているまでです。誰でも参加できるはずなのに、特定の個人の検証(了解?)がなければ事実であっても削除される、というのではこの事典の根本に関わります。私も、正直あなたがここの監理者と錯覚しているのではないかと疑っている位です。--Mattamatta 2007年8月24日 (金) 11:22 (UTC)
  • はて?私は他者の投稿を検証してはならんのですか?これは驚きですが、あまり私怨を晴らす為にこの場を汚すのは感心しませんね。いい加減、恥ずかしいと思ったらどうですか?--前図書頭 2007年8月24日 (金) 11:26 (UTC)
    • 話をはぐらかすのがお上手で。何でもご自身への私恨と解釈されるのでしたら、もはや話は通じません。--Mattamatta 2007年8月24日 (金) 11:32 (UTC)
      • ふと思い立って、Mattamatta殿の騒動の顛末を調べてみたら、この人は謹慎されたよし。まぁ、自省の念をお持ちなら、それは良かった。しかし、私への“断固抗議”は良いが、それが彼の最期の花道となつたか…やや可哀想。--前図書頭 2008年1月4日 (金) 19:08 (UTC)

少年時代の記述に関して[編集]

 「逆賊の子孫」云々の記述が幾つか見受けられますが、中世の平泉寺は延暦寺系の寺で世襲ではありませんし、神社になったのは明治の神仏分離令以後のことですので、「逆賊の子孫」という表現は不適当と思われます。

 神仏分離の際に、賢聖院住職義章という人物が還俗して平泉須加波と称しますが、後に自殺してしまいます。そこで、大畠清右衛門という人物の息子が養子として迎えられます。この養子が平泉澄の父である平泉恰合です。--203.136.87.11 2007年8月1日 (水) 06:07 (UTC)

 どうしても「逆賊トラウマ説」を書きたい方がいらっしゃるようですが、具体的な根拠を提示していただきたいですね。 自分の先祖でもなく神社でさえなかった当時の平泉寺が北朝方についた事が少年時代のトラウマになるというのは無理があるように思います。関係者が北朝方だった事がトラウマになるのなら、日本の名家の大半がそれに当てはまってしまうのですから。また、「白山神史」を編んだとあるのに、評価の欄では「平泉寺の呪われた歴史に触れられることを極端に嫌った」などとあって整合性もないですね。--61.193.114.128 2007年8月16日 (木) 15:34 (UTC)