ノート:島添大里城

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翻訳元の英語版記事がかなり間違っていると思います[編集]

外部リンクのところにリンクが置いてあるのKotobankの記述と比べても情報にかなり食い違いがあります。おそらく、島尻大里城(南山城)との混同があるのではないでしょうか。記事の出典にできるほど立派な情報源には当たっていませんが、1429年に落城=南山王国滅亡というのは南山城のことで、島添大里城はもっと早く攻略されて尚巴志の三山統一の拠点となったというのが正しいと思います。また、糸満の近くに築城されたというのも、明らかに南山城のことでしょうし、小学校云々も南山城の址にある高嶺小学校のことだと思われます。大里城址は大里内原公園になっているようですが、地図で見る限り付近に小学校はありません。どなたか信頼できる情報源をお持ちの方がいらっしゃったら、ご確認いただけませんでしょうか。--Dwy:(会話2014年3月21日 (金) 08:11 (UTC)[返信]

もう見ていないかもしれませんが、翻訳元の英語版記事の出典ジョージ・H・カー「沖縄 -島民の歴史-」を確認し、また南城市教育委員会の「島添大里城跡保存管理計画書」(2014年)も当って記事の修正を行いました。内容としては、Dwyさんの指摘の通りだと思います。
カーはあくまで「The Lord of Ozato」としか言わず、浦添から10マイル南の糸満南西の丘の上の城と記述。なお島添大里城は浦添城から5マイルほど、南山城は9.5マイルほどですので、カーの想定は南山城(島尻大里城)と思います。地理と歴史に詳しくない英語圏のウィキペディアンが勘違いしたのでしょう。また「島添大里城跡保存管理計画書」から記事に追加した通りで、島添大里城の近代の歴史に学校の話は全く出てきません。よって出典付の文章は南山城の記述とみなし、この記事からは除去しました。--KurmUmy会話2018年2月24日 (土) 11:23 (UTC)[返信]