ノート:山根幹人

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高松幹一?[編集]

『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「山根幹人」の項(p.429-430、同項執筆は田中純一郎)によると、山根は、高松豊次郎の娘である「雪」という人物と結婚した、と記述されている。

いっぽう、『沢島忠全仕事 - ボンゆっくり落ちやいね』(沢島忠ワイズ出版、2001年 ISBN 4898300960)には、「豊次郎の孫娘」である高松冨久子と結婚した沢島の手により、冨久子は、父「豊次郎長男の高松幹一」と母「こう」の娘である旨が記述されている。曰く、「こう」は豊治郎の撮影所(タカマツ・プロダクション吾嬬撮影所)の所長である「幹一」を支え、プロデューサーとして撮影所を切り盛りしたと。さらに、豊治郎の次男小谷三郎、おなじく三男吉村操については言及されているものの、山根やその妻「雪」については、いっさい言及されていない。これはなぜだろうか。

理由として考えられるのが、

  1. 山根幹人・高松雪夫妻と、高松幹一・こう夫妻には確執があったので、敢えて触れなかった。
  2. 山根幹人と高松幹一が同一人物である。高松雪と高松こうは同一人物であるか、こうが後妻に入った。

といったところである。いずれもわたしの「独自の考察・研究」の域を出ない。

「高松幹一」は、上記沢島本以外で見ることのない固有名詞であり、いっぽう、山根は著書も復刻され、また、豊治郎と父親の代から交流があったマキノ雅弘著『マキノ雅弘自伝 映画渡世 天の巻・地の巻』(平凡社、1977年、ISBN 4582282024)にも、写真も含めて散見される。山根が「吾嬬撮影所長」であった記述は見当たらないが、豊治郎に重用され、同様のポジションにいたことは確かなようである。また、「山根幹人」の名が本名であるか否かも定かではないことから、「山根の本名は幹一であり、豊治郎の娘・雪との結婚時かその後に、高松家と養子縁組をした」(上記2.説)と推測することも可能である。

いずれにしても推測でしかなく、新しい資料の出現を待ちたい。--Kmrt 2008年8月11日 (月) 22:51 (UTC)[返信]