ノート:山本七平/過去ログ1

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今現在の内容では「日本人とユダヤ人」に係る論争に偏りすぎではないでしょうか。表現にも主観的なものや憶測に基づくものが多く、百科事典として不適切な記述が多々見受けられます。論争に関わる部分は全面的に書き直した方が良いと思います。山本学の概要や戦争体験などのバックボーンに関する記述も充実させたいですね。Hyakushiki 2006年10月5日 (木) 6:54 (UTC)

「山本学」なるものに見るべき内容があるとお考えならば、加筆されることは一向に構わないでしょう。個人的には、「小説」ではなく、「評論」として出版した本の中で、明らかな作り話(念のためいっておくと、このようなことを一回やればそれだけで、言論人として永久追放されてもやむを得ないくらい重大なことです)や初歩的な間違いを書き連ねるような人物の発言に、そんなものが伴っているとは到底思えません。 また「表現にも主観的なものや憶測に基づくものが多」いという部分に、具体的な指摘を御願いします。Hkato 2006年10月6日 (金) 18:19 (UTC)

「表現にも主観的なものや憶測に基づくものが多い」部分 (揶揄)(冷笑的態度)(反論することができない)(論壇上で優勢だった進歩派への当てこすり、揶揄)(反進歩系陣営の主張への幻滅や反感につながった事実)(「真実はどうでも良く、単に主張があれば良いのか。売れれば良いのか」と反感を感じた人も多かった)2006年10月9日 (月) 16:42

その部分は確かに主観は多い気がしますが、当時の人たちの気持ちを左右両派できるだけ公平に記述したつもりです。修正は受け入れますが、彼によって多くの人が思想的影響を受けた事実、そして論争があった事実を抹消されるような気もします。 --らんで 2006年10月14日 (土) 02:03 (UTC)

中立以前の問題、これ書いた人は主な代表作の「空気の研究」・「現人神の創作者」とかの著作を読んでないのバレバレじゃない。ベンダサンの正体は山本七平だが、山本七平の正体はベンダサンじゃない。『日本人とユダヤ人』論争ならこれを基本に加筆ですましてもいいかもしれないけど。 ` >のようなことを一回やればそれだけで、言論人として永久追放されてもやむを得ないくらい重大なことです

が完全に個人的な意見以外のなにものでもない。現実に永久追放どころか死後10年たって続々復刊されている。それだけの価値が認められているという事。それを認めないというのは個人の自由だが、そういう人は最初から書かなければよい。


五島勉春山茂雄細木数子といった面々の著作をありがたがって読んでいる人もたくさんいらっしゃいますし、現在でもなお読者がついているという側面を加筆したいとお考えならば、それは結構なことかもしれません。

「個人的な意見」云々は意味不明。評論家と称する人が、完全な作り話を実在する対象であるかのように書き連ねる行為(実在する対象について、結果として解釈を誤ったということとは根本的に違います)が、最低の行為であると理解できないとはどうしたことでしょうか。Hkato 2006年10月27日 (金) 04:20 (UTC)

>評論家と称する人が 山本七平が評論活動をするのは「日本人とユダヤ人」のヒット以後であり、それも副業。彼の本職は聖書関係の出版、山本書店主。そもそも「日本人とユダヤ人」は山本書店から小部数で発行されたものが何故かヒットしたもの。言うならば身内向けの本。広く世に問うためのものではない。後に雑誌連載や大出版社からの著作では文体からして違う。「日本人とユダヤ人」の出鱈目さは評価する側からも再三指摘されている事であり、それをもって全体の評価とするのは不適切。

>「個人的な意見」云々は意味不明 >完全な作り話を実在する対象であるかのように書き連ねる行為(実在する対象について、結果として解釈を誤 >ったということとは根本的に違います)が、最低の行為であると理解できないとはどうしたことでしょうか。 筆者が山本七平の言う日本教徒である証明の好例。以下「日本教の社会学」より

小室 ところが宮本ー袴田論争にはこれがない。(中略)争点の中心は、どちらが不人情な人間であるか、不純な人間であるか、これを証明することに尽きるわけです。こうなるとマルキストの論争ではなくて、典型的な日本教徒の論争でしょう。

山本七平は最低の行為をした、ゆえに著作に読む価値はない。という論法はまさに日本教徒そのもの。


山本七平氏のやったことは、「非人情」という事ではないと思います。あくまで、言論人として決してやってはいけないことをやったのだと私も思います。自分の正体を偽り、主張の内容も間違いだらけだというのは指摘されてしかるべきです。 また、イザヤベンダサンの名義は「身内だけ」の間で使われたかのような表現がありましたが、それではなぜ彼は「百人斬り論争」(是非は別として)の際にイザヤベンダサンの名義をそのまま利用したのでしょう?しかも、イザヤ・ベンダサンの「日本刀は数人斬れば役立たなくなる」という説は、武芸者の反対論がある中、社会に広く広まってしまいましたよね。これは、ユダヤ人・外国人であるという事を自分の論争に有利になるように利用したと思われても仕方ないと思います。 ただ、「山本学」とやらが現実に社会に影響を与えたのも確かに事実だと思います。「空気」で日本人の行動様式を分析した事は、私自身確かにうなずけますし、それ以前に同様な指摘が無かったなら優れた分析でしょう。 彼がやったことを「やった」ときちんと指摘した上で、そのような社会に対する影響を考えて、彼にどのような言論・主張があったかを加筆するのは良いことではないでしょうか? --らんで 2006年10月28日 (土) 16:29 (UTC)

名無しの権兵衛さんが何と言おうが、『日本人とユダヤ人』は、書店主としての体験談や経営哲学を語った本ではなく、「評論家山本七平」のデビュー作として理解すべきもの。「身内向けの本」だとおっしゃるが、ベストセラーになるほど大量に増刷し、「広く世に問う」選択をしたのは著作権者である山本自身。そもそも「身内向け」だったら、出鱈目を書いていいとの価値観も理解できない。著者に近い側から、「この本は冗談本。内容は信用しないように」などとコメントがなされたこともない。現行文庫本の「解説」で、そういった指摘がなされている訳でもない。

>「日本人とユダヤ人」の出鱈目さは評価する側からも再三指摘されている事

それが事実ならば、まさしく現行記述にある「真実はどうでも良く、単に主張があれば良いのか。売れれば良いのか」と問われる事態。今時、「目的が手段を正当化する」というお考えか。

日本教徒云々も訳が分からない。論争が感情的になると、相手の人格攻撃になることが間々あるという程度の話にそんなタームを持ち出す必要なし。「日本教徒」という言葉で何か気の利いたことを言っているとお考えのようだが、そもそもこれも、ギリシャ語を理解できない山本が知ったかぶりして、間違った解説の挙句に言い出したにすぎない言葉。Hkato 2006年11月7日 (火) 03:55 (UTC)

内容以前の問題として、来歴の中でイザヤ・ベンダサンとの関係、『日本人とユダヤ人』への批判が羅列されるなど、形式が雑然としすぎているように思います。「イザヤ・ベンダサンとの関係」や「『日本人とユダヤ人』をめぐる論争」などの項目をたてて再編してはどうでしょうか。あるいは、「イザヤ・ベンダサン」もありますから、詳細はそちらへ移動して、参考リンクをとばすなど。Yougo 2006年11月12日 (日) 13:45 (UTC)

山本七平とイザヤ・ベンダサンについての見出しをたて、山本本人および山本夫人の証言を掲載しました。それについての肯定派・否定派の見かたも併記しました。これで問題なければ、「来歴」の中のベンダサン関係の記述を「イザヤ・ベンダサン」の項目に移動・再編しようと思いますがいかがでしょうか。 Yougo 2006年11月13日(月)21:00

ちょっと修正してみました。これでよければ私は移動してもかまわないと思います。いずれにせよ、「山本学」が社会に影響を及ぼし「山本七平賞」なるものまであるのは歴然とした事実で、否定はできませんからね。--らんで 2006年11月14日 (火) 15:09 (UTC)

らんでさんの修正を拝見しました。その意図はなんとなくわかりました。それを生かして、以下のような形にしたいと個人的には考えているのですが、いかがでしょうか。全体的に表現を少しやわらかくしたようなものです。高澤秀次の主張は不要であればとってしまってもかまいません。


「以上の山本の言を額面通りに受け取れば、山本は他の2人の著作権(アイデアのオリジナリティ)を尊重して、おおやけには自分自身の著作であると明言しなかったということになる。しかし、アイデアなどの点で協力者がいたとしても、わざわざユダヤ人名単独で出版したのは、主張の説得力や売り上げを増やすことや自説を広げることが目的だったのではないかと考えるものもいる。

『日本人とユダヤ人』に対する誤りを指摘する批判に対し、山本が「自分には著作権がない」として応じなかったことについては、山本の言を肯定的に受け取るものからも、「なぜそこまでかたくななのか」「誤りは正すべきではないのか」という声が聞かれた。

なお、『日本人とユダヤ人』のヒット後も、ベンダサンは著作を出し、主張や論議を続けていた。その中で、どの程度共同のアイデア・著作という実質があったのか疑問に思うものもいる。

文藝評論家の高澤秀次は、『戦後日本の論点 山本七平の見た日本』の中で、ベンダサンを山本の筆名としたうえで、山本の思想が結実するためには、いちどユダヤ人ベンダサンになりきって日本社会・歴史を分析することが必要だったのであり、その必要がなくなったとき、ベンダサンという仮面は捨てられたのだ、という考えを披露している。」--Yougo 2006年11月14日 (火) 21:00 (UTC)

最後の高澤氏の話は抽象的だし、不要かと…。後「日本人とユダヤ人」の記述に虚偽が多数含まれている事実はやはり削るべきではないと思います。--らんで 2006年11月17日 (金) 09:33 (UTC)

これは個人の語感の問題なのかもしれませんが、「虚偽」という言葉はなんとかならないでしょうか。軽蔑的なニュアンスが感じられて、wikipediaにはふさわしくないのではないかと個人的には思うのですが。「○○や△△の点で誤りが指摘されている。」などではだめでしょうか。--Yougo 2006年11月17日 (金) 11:09 (UTC)

ある論点について、著者が主観的には事実(あるいは真実)だと考えて記述したが、結果としては間違っていたという類いの話ならば、虚偽という表現は強すぎるかもしれませんが、山本が問題にされていることで特徴的なのは(もちろんそういう次元のことも多数ありますが)、自分で捏ち上げた作り話を事実あったこととして書いている、すなわち、嘘であることを自分で知っていながら、その嘘を事実だと記述し読者を欺いた、ということです。これは、「誤りが指摘されている」という微温的なことではなく、「虚偽」を書いたと記述するにふさわしい性質のことだと思います。Hkato 2006年11月17日 (金) 17:23 (UTC)

Hkatoさんのおっしゃることはわかりました。ただ、「虚偽が混じった本であること」は「事実である」と言ってしまうのは少しまずいのではないかと思います。「山本が行ったことは、虚偽と表現するにふさわしい卑劣なことであるという批判もある」なら問題ないと思いますが。「誤りがあることは事実」と「虚偽であることは事実」は、一見似ているようですが、客観的な記述という観点からは、かなり異なる記述なのではないかと思います。 あと、これは提案なのですが、山本ほど毀誉褒貶の激しい人物はなかなかいないと思いますので、「山本七平をめぐる評価」をたててはどうかと思いました。そのほうが利用者にとってもよいのではないかと思います。近いうちにアップしたいと思いますので、ご意見などいただければ幸いです。--Yougo 2006年11月23日 (木) 12:05 (UTC)

表現の違いはわかりますが、なぜ「虚偽が混じった本であることは事実である」のような表現がだめなのか、根拠を書いていません。やはり山本氏の場合「誤り」ではなく「虚偽」だと私も思います。それから、山本七平の評価を書くようですが、一度嘘をついた人は余程の事がない限り信用しない…という立場はアカデミックな場では重要な事であり、しかもこのWikipediaが目指すものは、インターネット版百科事典であるのですから、その立場はアカデミック的なものになるはず…という事はきちんと押さえて記述してください。当然これは個人の思想とは全く関係ない事です。--らんで 2006年11月23日 (木) 13:43 (UTC)

「虚偽」というと、Hkatoさんが書かれているように、「意図的に人をだます」というニュアンスがあります。山本が「意図的に」人をだましたということが確定的な事実であるならばよいのですが(訴えられて敗訴した・公式に山本本人が認めたなど)、そうでない場合は避けるべき表現ではないかと思います。 他の記事などを見ても、こういった微妙な意味合いを持つ言葉の使用には、かなり気をつけているように思います。たとえば、新聞社の項目を見ても、「疑義を持たれた報道」と見出しを採用していますし、よほど事実関係がはっきり明らかになっていないかぎり、「虚偽報道」「捏造」といった刺激的な言葉はさけています。 山本の評価ですが、肯定派と否定派の評価というかたちで執筆しようと思っております。これがwikipediaでいちばんポピュラーなスタイルだと思いますので。--Yougo 2006年11月24日 (金) 15:59 (UTC)

「基本的英文法の誤り」や「日本刀の脆弱性」は確かに間違いと言って良いのかもしれませんが、少なくとも「ユダヤ社会では全員一致は無効」とか「アメリカのユダヤ人の高級ホテル住まい」などは虚偽といわず何と言うべきなのでしょうか?また仮に、山本が意図的な虚偽ではなく個人的に誤った知識で記述したとしても、後々数多くの批判があり山本はその批判を知っていたはずです。大ベストセラーになった後も記述を変えないとするなら、虚偽と言われる十分な資格があり、これが虚偽でないなら、世の中に虚偽な言論など存在しないという事になりかねません。彼の評価を肯定派と否定派の両面から書くのは否定しませんが、彼の言論に虚偽が多数混じっている事は明記すべきだと思っています。--らんで 2006年11月24日 (金) 16:19 (UTC)

らんでさんがそこまでこだわるならば別にかまいませんが、「捏造」や「虚偽」という刺激的な言葉や過剰な修辞が入っている文章を読んだ人は、「これは偏った視点の人が書いたのだな」と思うと思いますよ。現に記事にそういう表示が出てしまっていますし。「北方領土奪還・ロシアの虚偽に満ちた交渉」とあれば右翼のビラ、「教育基本法改悪を粉砕・その害悪は明らか」とあれば左翼のビラだと思うでしょう。そういうことですよ。繰り返しますが、らんでさんがそう思われてもいいとおっしゃるならもう私は何も言いません。--Yougo 2006年11月25日 (土) 04:21 (UTC)

Yougoさんは「ユダヤ社会では全員一致は無効」とか「アメリカのユダヤ人の高級ホテル住まい」という与太話をどう評価されているんでしょうか。私は、これは明白な「虚偽」(事実として間違っており、多分、山本自身も、初めから間違いだと分かっていながら事実だと書いた)と認識しておりますし、この問題について関心も持つ人は共通してそう考えている程度のことだと思いますが、異なった見方をされているということでしょうか。
>「捏造」や「虚偽」という刺激的な言葉や過剰な修辞
 立場によって解釈の分かれる事柄についてであればそういう表現は回避すべきでしょうけれど、山本がやったのはそういう「高級」な次元のことではなく、まさしく「捏造」や「虚偽」といった表現で解説するにふさわしいことだということは、再三申し上げています。仮に読む人がその文言について刺激的な表現だと感じたとしても、現に山本がやったのはそう評されてやむを得ない重大なことだと、現行解説文を読めば理解できると考えております。Hkato 2006年11月25日 (土) 06:02 (UTC)

らんでさんとやりとりをしている途中でHkatoさんが入られるので微妙に錯綜するのですが。「この問題について関心も持つ人は共通してそう考えている」というのであればそう書けばよいのであって、「事実である」とかえって不正確な表現を使うべきではないということを私は繰り返し言っているつもりです。それと「虚偽」という言葉を使うのであれば、「『○○は虚偽である』と批判されている」とするほうが、「○○は虚偽である」と地の文で虚偽という言葉を使うよりもwikipedeiaの記述にふさわしいのではないかということです。地の文、つまり記述者の意図があらわすところに、「虚偽」といった言葉を使うことは、閲覧者に、この記述者は偏向しているなと感じさせてしまうことになるであろうから、それはらんでさんにとってもよくないことなのではないかと差し出がましいことですが忠告申し上げたということです。ですから、ご本人がそれでも本望だとおっしゃるなら、私は何も言いませんと言っているわけです。--Yougo 2006年11月25日 (土) 07:35 (UTC)

ここまで嘘が明確になっている事例を「虚偽である」と表現できないなら、何のための百科事典か…と私は思います。別の事例で「偏っている」と判断する人がいるなら、その事例毎に論議すれば良い話であって、ここまで明らかなら「虚偽」であると表現しない方がおかしいと思いますけどね。むしろ、ここまで明らかな事例を言い切らない方が私のためにならない気がします。--らんで 2006年11月25日 (土) 20:11 (UTC)

らんでさんのお気持ちはわかりましたので、この件は了解しました。「何のための百科事典か…」という言葉は、仕事で事典編集に関わっている人間としては耳にいたいです。できるかぎり断言をさけるものですから。
らんでさんとは結論が出ましたので、Hkatoさんにお答えいたします。まず、「ユダヤ社会では全員一致は無効」ですが、私の記憶によれば、ベンダサンは「サンへドリンでは全員一致は無効」と書いていたと思うのですが、この言い換えはどういう意図でなさっているのでしょうか。あと、「アメリカのユダヤ人の高級ホテル住まい」を「事実として間違っており、多分、山本自身も、初めから間違いだと分かっていながら事実だと書いた」とされいますけれども、どのような根拠にもとづいてそう考えるにいたったのかを教えていただければさいわいです。このあたりのことは、常識的に考えれば、かなり断定するのは難しいと思うのですが。特に、ベンダサンの場合は、どのエピソードは誰が持ち込んだのかを確定しなければ、知りながら嘘をついたということも確定できないわけで。そのあたりまでどのように確定されたのか教えていただければ幸いです。わかれば、ベンダサンの『日本人とユダヤ人』のところに、それぞれのアイデアの提供者は誰々であるという記述もできて一石二鳥ですし。よろしくお願いいたします。--Yougo 2006年11月26日 (日) 05:59 (UTC)

上記議論の本筋から離れた話で、すみませんが、誤記と思われる箇所が有りましたので指摘させていただきます。

>『一下級将校の見た帝国陸軍』において日本刀は2~3人斬ると使い物にならなくなると主張し、その証拠として自身の経験以外に『戦ふ日本刀』から自説に都合よく引用する行為を行ったため

と言う記述に関して、「一下級将校の見た帝国陸軍」の内容を確認しましたが、「戦ふ日本刀」からの引用は有りませんでした。
おそらく、当該箇所は単純誤記か、書かれた方(履歴を見てもIPアドレスしか判りませんでしたが)が「私の中の日本軍」(こちらには「戦ふ日本刀」からの引用有り)と「一下級将校の見た帝国陸軍」を混同されている可能性が高いと思われます。--長 高弘 2006年12月6日 (水) 11:20 (UTC)

読者の利便性を考えて全体を再構成しました。加えて全体的に記述を簡潔・客観的なものにするよう努力いたしました。ベンダサン関係の話題は、あとで整理・再構成をして「イザヤ・ベンダサン」の項目に追加します。どうかみなさま、今回の編集の意図をご理解いただけるようお願い申し上げます。らんでさん・Hkatoさんのお気持ちは「評価」の項目で生かさせていただきましたがいかがでしょうか。長高弘さんのご指摘は私もその通りだと思いますので、その通り修正いたしました。--Yougo 2006年12月7日 (木) 15:47 (UTC)

>MIWA.SSさんから指摘がありましたので、議論をしてから削除させて頂きます。 削除した理由は、「評価」の記述は人物に対して偏った記述に見えたからです。 そもそも評価とは記述者の評価にならざるを得ないと考えます。 事実の成否はどうであれ、公的な百科事典の記述にそのような記述をいれて、 人物に対して、先入見を与える記述はない方がよいと考えます。 例えば、哲学者ヘーゲルは、黒人に対して差別的な偏見をもっていましたが、 そのような記述を入れることにより、人物に対して悪い先入見を持ちます。 --Mori8 2006年12月17日 (日) 12:23 (UTC)

残念ですが、その批判に出典の明記があり指摘された事項が虚偽でない以上、それを削除する理由にはなりません。山本七平氏は故人ですのでWikipedia:存命人物の伝記に基づく削除も不可です。削除されるのであれば、貴方が削除する根拠として記述されている内容が虚偽であることを証明してください。--Miwa.SS 2006年12月17日 (日) 13:56 (UTC)

>MIWA.SSさんの返答を読みました。 Wikipedia:存命人物の伝記には当たりませんが「評価」の以下の記述は、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自の調査Wikipedia:検証可能性に違反するのではないですか。

"その一方で、山本の著作には記憶にたよった不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、 評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。その中には、山本は読者をあざむくために意図的・積極的に 虚偽の事実を示しており、ほとんど詐欺師に近い人物であると考えるものもいる。"

この記述は、どの一次、2次資料を元に記述されているのでしょうか。その人物に対して、悪く考える人間は、 どんな聖人、君子でもいます。このような記述のソースが何処に示されていますか。 --Mori8 2006年12月18日 (月) 14:53 (UTC)

ならば、出典の明示を求めて一定期間待つべきです。コメントアウトですらなく一方的に削除すべきではありません。また、後段の実際に引用元と山本氏の著作を表示されている件まで削除すべき理由になりません。--Miwa.SS 2006年12月18日 (月) 22:44 (UTC)

>MIWA.SSさん了解しました。出典の明示を一定期間待つことにします。 また、後段の部分の「具体的な批判」でも捏造と批判している人物が誰で、また信用の置けるどの媒体の記事に載ったのか、記載されていません。よって、特定部分の記述だけ残すことが、出来なかった為、その時は削除しました。 --Mori8 2006年12月20日 (水) 17:14 (UTC)

山本氏の著作の内容が怪しいというのは、浅見定雄氏の本が根拠となるでしょうね。本文に入れましたのでごらんください。私ははっきりいって、彼の出世作の「日本人とユダヤ人」は嘘ばかりの本だと思っています。--らんで 2006年12月24日 (日) 09:05 (UTC)

らんでさん出典の記述を見ました。記述された内容が出典があるならば、問題ないと思います。

「ユダヤ人は全員一致は無効」の記述についてですが「日本人とユダヤ人」では、イエス時代のサンヘドリン(国会兼最高裁判所)でそのような明確な規定があったと書かれています。そのことが間違いだと記述されているのでしょうか、それとも、ユダヤ人の習俗としてそのようなものはないという批判なのでしょうか。 取り合えず、手に入れて読んでみます。 只、「日本人とユダヤ人」で彼が言いたいことは、日本人は無宗教だというが、日本教という教徒であるといいたいのでしょう。日本人は明確な、倫理的規定をもっていないけれども、なんらかの倫理規定を持っているし、「何事も水に流す」気質は、本当にあるような気がします。だから、「武士道」を編み出さなくては、仇討のために草の根を分け乞食となっても足跡を追いかけさすことが出来ない。 --Mori8 2006年12月24日 (日) 17:23 (UTC)

らんでさんが追加された部分ですが、相変わらず全体の構成を考えずに書きたいことだけを追加したという形ですので、整理しました。要点は2点。ひとつは、批判はできるだけ客観的・具体的なものにしました。もうひとつは、イザヤ・ベンダサンの項目にふさわしいものはそちらに移しました(ご確認ください)。山本の語学力については、具体的な例を追加していただけるとよりわかりやすくなるかと思います。--Yougo 2006年12月27日 (水) 11:25 (UTC)

ベンダサン論争について、なぜ本名ではなくペンネームを使用したのか論議がないのは問題ではないか?  本人はベンダサンと名乗らなかったわけで、夫人が生死の境の大手術という土壇場にわざわざ生涯最後の質問として「あなたはベンダサンなの」と聞くくらい何も知らなかった。 いいかえれば何も言われていなかったという事実そのものによって、ベンダサンと山本七平は別人格として区別されていたと考えてよいのではないでしょうか。 ベンダサン問題は、解明されていない点が多く、少なくともローラとホーレンスキーの素性調査が終了するまで、まったくの別項目としてとりあげることを提案します。tshp

そうでしょうか?山本七平はキリスト教徒です。キリスト教徒は嘘をついてはいけないという教義がありますが、死の間際に自分がついた嘘を告白するということがあります。山本七平と彼の妻が行ったことは、まさにこの行為でしょう。また、妻はベンダサンが言っていることは、いつも山本七平が言っていることと同じだと思っていました。生死の境で彼女はその疑問を彼にぶつけたのでしょう。まさにキリスト教の流儀に沿って。ここに、矛盾点やおかしな点は存在しないと思います。--らんで 2007年3月11日 (日) 03:38 (UTC)

山本の思想について[編集]

山本の代表作『現人神の創作者たち』『洪思翊中将の処刑』についての概略を説明しつつ、山本の思想の核と考えられるであろう部分を記しました。建設的な修正を歓迎します。あとは、軍隊経験あたりのことをまとめていただけるかたがいるとうれしいのですが。--Yougo 2006年12月28日 (木) 09:47 (UTC)

頼むから、アンチはアンチで別ページ設けてやってほしい。 他に評価すべき著作も数多あるのに、アンチに引き摺られて紙幅が足りない。 なんてのはマジ勘弁して欲しい。 fan

Wikipediaのトップページから辿ると、ここの基本方針には「敵のために書く」という部分があります。ご一読を。確かに、なかなか実行しにくい事ですがね。 で、一応私は「アンチ」なのでしょうか?しかし、山本七平が日本に一定の割合で思想的に影響を及ぼした事は否定しませんし、このノートの前の方ではそれを認めています。--らんで 2007年3月26日 (月) 15:25 (UTC)

3 評価

3.1 具体的な批判
3.2 具体的な評価

となっていないし、批判の文章も長いし、細部に拘る揚げ足取りだから、アンチと感じてしまう。 評価にも同じ文量を割くべきだ。 例えば『私の中の日本軍』の批判についての文だと、日本刀云々のみ!書かれて、同書が無価値なものに思えてしまう。日本刀については正しく枝葉であり本題ではない。にもかかわらずそれだけを載せると、この本は読むに耐えないものだと印象づけることになる。

amazonの書評の方が、本旨を正しく突いている。
以下そのコピペ Amazon_co_jp: 私の中の日本軍 (上) 本 山本 七平

この書物の面白さは次の三点にある。まず、某大新聞社の一著名記者との論争で、いかに相手が奇妙な思い込みに囚われ実証精神の片鱗も無く粗雑な文章を書くしか能のない人間で、新聞記者として明かに失格であることを、堅固な実証精神で事実を調べ上げ容赦なく暴き出すその迫力。件の失格記者が姿を晦ます事なく依然としてこの業界で大きな顔をしているのは明らかにマスコミの病弊を証明している。第二点は、旧日本陸軍という巨大な集団がいかなる組織であり、いかにして日本及び日本人を破滅の淵に立たしめたのか、を探求するその執念深さ。作者自身否応なく徴兵され殺戮の場に引出されて生死の狭間に立たされたことを思えば、恨み骨髄に徹して執念深くなるのも無理はない。第三点、実はこの部分が最も面白!いのだが、作者自身の軍隊経験を語り、ゲートルから立ち昇る体臭や腐乱死体から滲み出す体液のえもいわれぬ色彩をまざまざと感じさせるリアリティの凄さ。中隊長だったかに命令されて戦死者の遺骨を得るために遺体を掘り出しその腕を切断、肩に担いで持ち返る逸話でその重さに辟易したと言うような感想が確か記されていたが、読み手に過ぎないこちらの肩にまでその重みが伝わってくる。同時にそれが旧日本軍ひいては日本という集団のどうにもやりきれない重苦しさをまで感じさせるところがこの本の傑作たるゆえんであろう。 大岡昇平「俘虜記」「レイテ戦記」大西巨人「神聖喜劇」と並べてもおかしくない一本である。  fan

私は、このノートの前方を見てくれれば分かるとおり、山本七平のやったことはやったこととしてきちんと認め、それを記述することを積極的に勧めている。彼を批判するところは批判し、評価すべきところは評価すべきだろう。文量の問題ではないと思う。 さて、「日本刀云々」の問題だが、枝葉の問題とは思えない。なぜなら、山本七平はイザヤベンダサン名義のまま「この理論を最重要な根拠」として論争を繰り広げ、かつ一般に誤った認識が広がってしまった事例なのだからだ。問題視せざるを得ないだろう。--らんで 2007年4月9日 (月) 12:02 (UTC)

>なぜなら、山本七平はイザヤベンダサン名義のまま「この理論を最重要な根拠」として論争を繰り広げ、かつ一般に誤った認識が広がってしまった

いやに、この部分に拘りますね。ソース希望。あと当時の年代、状況なんかも詳しくお願いします。 fan

重要な事柄を拘らなくて流せとでも言うのでしょうか。ソースは「殺される側の論理」。イザヤベンダサンと 本多勝一の論争が載っている。当時の状況?さすがに、それは自分で調べてくれと言いたいのですが…。WikipediaはいつからQ&Aになったのでしょうか?--らんで 2007年4月15日 (日) 14:21 (UTC)

まぁはっきり言ってね、本多勝一の名前を見たとたん、どっと白けた訳ですよ。

彼の発言にも一理あるのかも知れない。が、だったら、本多勝一のwikiでやれや、アホがと。

そういう訳で本多勝一関連の記事は、本多勝一のほうにたった今から強制移動する!

チベット関連で世界中で祭りやってる記念だ。

と思ったら、結構修正がんばってくれてた人がいたから、『私の中の日本軍』の要旨を付け加えておくだけにするよ。

--fan 13:52 2008/04/08

百人斬りの記事は東京日日新聞(現在の毎日新聞東京本社)に掲載されたものですし、朝日新聞の本多勝一が記事にしたのは両者が裁判で処刑された四半世紀も後。事実関係無茶苦茶な記事はリバートさせていただきました。--Miwa.SS 2008年4月8日 (火) 07:54 (UTC)

主要著作について[編集]

区分を設け、著作を追加しました。 出版社、刊行年については国立国会図書館NDL-OPACの検索結果に拠り、刊行年の古いものを表示しました。

gawa1422 2007年6月2日 (土) 01:59 (UTC)

全体的な構成および著作権への配慮[編集]

記述内容に重複や記述上の不備が散見されるので以下のとおり改善を提案します。


「1.1 イザヤ・ベンダサンとの関係 」について 検証可能性の観点および著作権への配慮から 「~こだわりを持っていたようである。」という記述は推測を含む表現。はっきりしないことを記述するよりは、以下の3点

1.公式には「自分は著作権者ではない」と表明しつづけたこと 
2.私的な場面で『日本人とユダヤ人』の著者であることを認めたという証言があること 
3.イザヤ・ベンダサンの著作は近年、山本の著作として扱われていること。(山本七平ライブラリー(文芸春秋社、1997年)にベンダサンの著作が所収されている。「ベンダサン氏の日本歴史」(文芸春秋社『諸君!』1973年1月以降22回掲載)が『山本七平の日本の歴史』(ビジネス社、2005年)として出版されている。角川oneテーマ21シリーズから『日本人とユダヤ人』(角川書店、2004年)が山本七平名で出版されている。など)

を中心に事実関係を記述し引用の多用は避ける。

重複を避ける観点から 批判・賞賛についての記述は評価の項目に吸収し、経歴からは削除。


「3 評価」について 重複を避ける観点から 評価・批判の具体的内容は別途小項目を設けて記載する構成となっているので、賞賛と批判がある旨簡潔に記載。 中立性の観点から 具体的な評価(あるいは「肯定的な評価」)の小項目を設ける。(これにあわせて「具体的な批判」は「否定的な評価」に名称変更)

「3.1 具体的な批判」 について

検証可能性およびガイドライン「言葉を濁さない」に従った表現の観点から 出典の明示(著者名・書名・出版社・出版年・引用の場合は引用箇所)および記述形式の整理

たとえば、

浅見定雄は山本(ベンダサン)の『日本人とユダヤ人』をはじめとする著作には記憶にたよった不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考えており、山本は読者をあざむくために意図的・積極的に虚偽の事実を示し、ほとんど詐欺師に近い人物であると『にせユダヤ人と日本人』(朝日新聞社、1983年)において論じている。本多勝一はいわゆる「百人斬り競争」についてベンダサンと論争した。(『殺す側の論理』(すずさわ書店、1972年))某は山本の『私の中の日本軍』における日本刀の性能についての記述(3~4人切ると使えなくなる)という点について、1985年9月19日に下関で発生した日本刀による通り魔事件(4名死亡6名重症)を論拠として反論した。(『書名』出版社 出版年)某は山本の『私の中の日本軍』における成瀬関次著『戦ふ日本刀』(実業之日本社、1940年)からの引用が恣意的であると批判している。(『書名』出版社 出版年)

という形式とし引用の多用は避ける。

以上 gawa1422 2007年5月19日 (土) 00:35 (UTC)

gawa1422 2007年5月30日 (水) 14:26 (UTC)

経歴変更内容[編集]

目次の構成に統一感が出るように「年譜」という見出しをつけた。

年譜に大平内閣・中曽根内閣の諮問機関の委員を務めたことを加えた。

年譜の1970年のベストセラー以下はイザヤ・ベンダサンの項で述べられるべき内容なので削除した。

受賞歴の項を新設した

ベンダサンとの関係の項目は、引用の多用は著作権を侵害する恐れがあるので、引用元の文献の内容を自分なりにまとめた。

評価にかかわる記述は重複しているので削除した。

以上

gawa1422 2007年8月4日 (土) 03:57 (UTC)