ノート:山吉氏

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山吉氏の系譜についは、三条市史によれば、山吉豊守より古い時代の系譜類は信用できないとされています。山吉氏の系譜類は、大きく5種類にわけられ、佐原氏が池姓を継ぎ、山吉となったとする「山吉家家譜」はそのうちの一つにすぎないとのことですので、「山吉家譜」の内容にかたよった以前の記事は中立性をかくのではないでしょうか。 自治体史を参考にしながら、一次史料重視で書き換えました。--Thomo 2010年4月19日 (月) 04:42 (UTC)[返信]

>Thomo氏 池氏兄弟については再出典確認中、山吉義盛室に関しては、山吉家家譜に記載が有り資料と記載の矛盾がなく独自研究には当たらないと見たからです。一次史料では義盛の存在が確認できませんが、山吉氏関連の系図では一次史料はないわけですから、併記して定説がないとする表記には反対しませんが、「三条市史によれば山吉豊守より古い時代の系譜類は信用できない」という理由で山吉家家譜を出典と見なさない考えも、偏りがあるのではないかと思います。--秋田城之介 2010年8月22日 (日) 09:52 (UTC)[返信]

三条史料調査会編『三条市史資料』では、山吉系譜や『北越雑記』には信をおけない箇所が相当あり、記載されている数十代中には偽書に偽作が重なっている人物もあるのではないか、専門的な調査検討が必要とされてました。『三条市史』(1983年)では、後世系図ではなく確実な史料から山吉氏の系譜を考証しようとしており、山吉氏に関係が深い『燕市史』(1993年)、『分水町史』(2006年)も記述内容をみるかぎり同様と思われます。山吉氏が池氏の末裔であるとする説は、いずれの自治体史も可能性はあるが、確実な史料では確認できないとしていました。早くから疑義が投げかけられていた池氏平頼盛末裔説に関しては、稗史や後世系図によらず、古文書から池氏の出自を初めて論じた宮栄二氏の研究以後、頼盛の子保業の子孫の可能性を認める研究者が増えていますが、完全に決着しているわけではないとされています。ウィキペディアでは、検証可能な出典を持てば掲載可能とのことですので、以前にも私の会話ページに書きましたように『山吉家家譜』の記載に反対してはおりません。ただ、確実な史料から検証している研究者の見解とあまりにも掛け離れたものになるのはどうかと思います。
以前上杉氏の石高で同様に議論がありました。その時は一般書でも記述され、通説とされている会津120万石の記載に,脚注で「秋田家文書」「上杉将士書上」の異説を追記することで一応まとまりました。史料が残っている行盛、久盛以後の山吉家歴代の系譜も多くの自治体史で記述されている内容を現在の定説として記述し、『山吉家家譜』での記載内容は系譜、生没年も含め脚注でまとめるのはどうでしょうか。正盛の初見史料が『山吉家家譜』での正盛の没年以後であるという矛盾も解決できます。別の後世系図である『越後三条山吉系図』(東大史料編纂所蔵)等の別説も併記しやすくなると思うのですが。
『山吉家家譜』では、「長守」や成秀の初名として「義守」とされているのを、「長盛」や「義盛」とされているのは、もしかして川部正武氏のサイト「武将系譜辞典」を参照されているのでしょうか。私が系譜の注記の現代語訳で確認した限り、義守こと成秀の注記には、「上杉憲将に仕え、上杉憲栄と二人で政務を執り計る(史実ではないと思いますが)」と書かれていましたが、憲将の娘と婚姻したなどとは書かれてなかったと思います。『山吉家家譜』で正盛の父とされる義長(秋田城之介さんは別名の記載があると言われましたが、確認した限り注記には別名久盛の記述はありませんでした。ただこの系譜が元になっている『北越雑記』では、義長の別名が大炊介久盛となっていましたので、久盛を父と明記した山吉正盛安堵状から、『北越雑記』の著者が比定したのかもしれません。)の注記には、母が憲将の娘とされてました。ただこの注記では応永の乱時には、上杉憲賢の流れをくむ妻有城大多和家(新潟県の歴史書やネットで確認できません)を継いでおり、兄の死で山吉家を継承、以後山吉家は上杉の御家門(一門)となったなどと史実とは思われない記述があります。また頼景との関係では、注記を読む限り、姉が頼景に嫁いだのではなく、(現代語訳の意味がわかりにくいのですが)「山吉の養母が長尾頼景の妹である」あるいは「養母の上杉憲栄の娘は長尾頼景(妻)の妹である」ともとれるのですが。--Thomo 2010年8月27日 (金) 18:40 (UTC)[返信]
(追記です)私が、長盛や義盛の山吉氏へのリダイレクトを提案したのは、長守を長盛、義守を義盛としてよいのかはっきりしない(川部正武氏のサイトは長盛、義盛とされていましたが)、同じ伝承人物としても本成寺関係で記載されることがある定明、長久と違い、現在のところ今後の記事の成長も期待できない(義盛の記事の記載内容は、山吉行盛の事績です。出羽卒族さんも系譜はともかく『山吉家家譜』での義盛(家譜では正確には義守)の事績を記載されるのは、史実を鑑みて躊躇されたのではないでしょうか)、他の山吉系図には別の系譜、生没年が記載され混乱していると思ったからですが、リダイレクトに御反対ならそれでもいいです。別の系図に記載されている系譜や生没年を併記するようにしましょうか。行盛は川部氏のサイトでは『山吉家家譜』の盛計に比定されているようですが、成書では蒲原郡司の職権を久盛が継承していることから、久盛は行盛の近親であることは間違いないとされていましたが、父であるとも兄であるとも書かれたものはなかったと思います。--Thomo 2010年8月28日 (土) 21:12 (UTC)[返信]
併記には反対しません。脚注併記もまた有効な手段であることに同意します。また頼景に関して、注の方でも養母のくだりは分かりにくいですが、系図本体には当主の側系として「長尾信濃守頼景室」と明記されていました。--秋田城之介 2010年8月29日 (日) 06:21 (UTC)[返信]
山吉氏の出自については、本文の私の書き方も問題があるのではと思い、異説を併記しました。なお行盛は系図上の人物と人物比定されている文献はないと思いますので、訂正しました。また、『山吉家家譜』の記載によれば、上杉憲将女は義守(盛?)室ではないと思うのですが。『山吉家家譜』は事績や系譜の年代がかなり史実と合わないおかしなところがあるので、出羽卒族さんが改変された可能性があります。--Thomo 2010年9月4日 (土) 18:53 (UTC)[返信]
それは出羽卒族さんが行盛とした人物の母親であるだけであって義盛の室ではないということですか?私も同じような認識ですが、もしかすると他の系図に記載があるのかもしれません。しばらく要出典とし、然る後に削除でもよろしいかと。--秋田城之介 2010年9月5日 (日) 14:53 (UTC)[返信]