ノート:尻垂坂の戦い

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上杉家御年譜1巻 謙信公を、確認したところ、元亀3年9月の前後を見たが、尻垂坂の合戦は、載ってませんでした。

どうなってるの?これ?架空の合戦ですか?参考文献も史料と呼ばれる物が、1つもないし。--222.224.144.75 2022年4月19日 (火) 06:53 (UTC)[返信]

※戦国合戦大事典の第3巻 北陸編を読みましたが。全体で、富山城の戦いですね、これ。んで、富山城の戦いの期間中の1節として、尻垂坂の合戦がある、という扱いになってる。記述内容は、ここのWIKIや、某サイトなどのほうが、詳しいです、なおかつ、わかりやすいです。富山城の戦いという本の題名の中に、目次として、合戦1,合戦2,合戦3,尻垂れ坂、合戦4,合戦5・・・・・、こんな感じです。

※そのほか、増補改訂 本願寺史 第1巻の上杉謙信と北陸の一向一揆の戦いの項目を確認したけど、尻垂れ坂の合戦は、載ってませんでした。

※さらに、越中旧事記 新川郡 富山 を開くと、町新庄古城 しりたれ坂、びや橋、・・・・など。 富山と新庄の間の場所のことで、そこは、しりたれ坂、というんです、合戦のあった場所です、って書いてある。

ここの参考文献を調べてみました。--183.77.63.198 2022年5月4日 (水) 06:11 (UTC)[返信]


此石地藏の瘧疾を落すは地藏にあらず至而古き石塔なり巾二尺斗長さ地の上に出る所二尺五六寸斗り凡六尺斗りもありて石塔と見へたり然共久しく成る事なれは土へ埋りしものならんと梵字少し見ゆ又或說に右尻垂坂合戰の刻越後景虎首實檢いたされ直に其所へ穴を掘首を埋め其處に石塔を建られし其石塔なりと云ふ >>>>> この文章なんですが。越中旧事記(越中資料叢書)には、載ってませんね。阿弥陀如来まで、ですね。

富山郷土資料叢書 越中旧事記・前田氏家乗には、載ってるということみたいなんですが、これは付け足しでしょうか?越中史徴には、上杉謙信の首実検の話しと富山城の合戦のことは、載ってるみたいです。

どうなってるんでしょうか?--183.77.63.198 2022年5月4日 (水) 07:10 (UTC)[返信]

富山郷土資料叢書 越中旧事記・前田氏家乗の本を借りて、確認したところ、どの版本の越中旧事記から、引用したか、出典不明でした。最古の原本では、町新庄古城、と冒頭の表題になっているのが、この本では、新庄町古城となっている。

また、前半部分に、~阿弥陀如来。まで書いて、行変更して、後半部分に、此石地藏の瘧疾を落すは~が付け足されています。1932年にこの本を出版した富山郷土研究会による改ざんに、間違いないです。--113.147.126.157 2022年5月26日 (木) 04:39 (UTC)[返信]

※ 明治22年まで、町新庄村、というのが、存在しますので、町新庄古城が正しいです、江戸時代では。 この町新庄村は、明治22年4月1日に、新庄町という自治体になります。富山郷土資料叢書 越中旧事記・前田氏家乗では、昭和7年1932年の発行ですので、新庄町古城と書いてあるのは、この記述が、明治22年4月1日~昭和7年までの間に造作された事実を物語っている。馬脚を現すとは、このこと。江戸時代の書物を装った偽書ですね。--113.147.126.157 2022年5月29日 (日) 01:46 (UTC)[返信]