ノート:小山内薫
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記述への疑問とコメントアウトの報告_2007年4月
[編集]- 疑問
- 歌舞伎のあり方を「堕落とみなした」、とありましたが、小山内は歌舞伎好きであり、少々腑に落ちないため取りあえずコメントアウトしました。
- 自由劇場第1回の時点で、「スタニスラフスキー理論によってリアリズム演劇の確立を目指した」というのは出典はあるのでしょうか?
--忠太 2007年4月10日 (火) 14:10 (UTC)
- 曽田秀彦『小山内薫と二十世紀演劇』を斜め読みしましたが、初めからスタニスラフスキー理論を掲げていたとは考えられないので、修正しました。 --忠太 2007年4月30日 (月) 13:19 (UTC)
- [増補]戦後演劇―新劇は乗り越えられたか、管孝行、社会評論社、2003年 に記述があります。--124.97.79.179 2007年6月1日 (金) 16:52 (UTC)
- 菅氏の記述にはそう書かれてますが、特に論証はありません。小山内自身が自由劇場を始めた前後の文章でもスタニスラフスキーにふれているものは見当たらないようです。大体、小山内自身海外の舞台を見ていた訳でないので、スタニスラフスキー・システムを理解していたとも思えません。ただ、外遊時にモスクワの自宅を訪れているくらいなので、モスクワ芸術座の評判は知っていたと思います。(外遊後にスタニスラフスキー・システムを理解したか、というのはまた別の問題ですが。「スタニスラフスキー・システム」が広く知られるようになったのは「俳優修業」(1938年)以降?) --忠太 2007年6月3日 (日) 12:37 (UTC)
- 事実ならWikipedia:検証可能性が出来ますが、こういう演劇「論」は、賛同者がいなければ、この人一人の理論なので論証しようがありません。Wikipediaは辞書であり「正確となるよう努力しなければなりません」というのが、基本ルールWikipedia:五本の柱の中にもありますので、こうした演劇「論」は書くべきものではないのかも知れません。本人の著書などに記載があれば別でしょうが。--125.170.172.5 2007年6月5日 (火) 13:19 (UTC)
陸軍病院について_2007年10月
[編集]「広島鎮台病院(広島陸軍病院、後一つが広島赤十字・原爆病院となる)」とありますが、鎮台病院(後に陸軍病院)は国(陸軍省)の施設で、日本赤十字社の病院とは別組織です。(もっとも、赤十字病院の初期は軍医が兼務することもあり、また戦時には赤十字病院を陸軍病院として使用する規定もあったため、ややこしいのですが)…少なくとも、小山内建が務めていた鎮台病院が現在は赤十字病院になっている、という説明は違うのではないか、と思う。 --忠太 2007年10月20日 (土) 16:26 (UTC)
- 報告 「後一つが広島赤十字・原爆病院となる」の個所をコメントアウトしました。 --忠太 2008年11月23日 (日) 13:49 (UTC)
ゴードン・クレイグ
[編集]小山内は(明治40年頃?)ゴードン・クレイグ(Edward Gordon Craig)の第一対話を読んで「舞台監督の何たるか」を知り、何度も読み返したという(演劇画報T11.3)。岸田真氏[1]によると、クレイグはリアリズム演劇を批判していたというのだが…。 --忠太 2009年8月25日 (火) 16:21 (UTC)
- 岸田真氏の「『演劇芸術』との邂逅 小山内薫とゴードン・クレイグ」[2]によると、小山内は死の前年にもクレイグの翻訳を行うほど、生涯影響を受け続けた。クレイグは『演劇芸術』で著名となり、モスクワ芸術座での「ハムレット」演出も行った。(現在Wikipediaにあるゴードン・クレイグは別人) --忠太(会話) 2014年4月22日 (火) 14:22 (UTC)