ノート:太宰府天満宮

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「JR鹿児島本線二日市駅から徒歩で12分」  はおそらく間違っています。地元の方などで、正確な情報をお持ちの方の記述をお願いします。58.70.34.123

JR二日市駅から天満宮までは3km以上あるため徒歩で移動するのは実用的ではなく、JR駅から天満宮までの直通バスもないので、徒歩とバスの所要時間は消しました。--Muyo master 2007年3月14日 (水) 14:06 (UTC)[返信]

歴史[編集]

歴史 この神社には学問の神として知られる菅原道真が祀られている。道真は901年に藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、903年に死去した。その遺骸を都まで送ろうとしたが、大宰府から外れた所で牛車を曳いていた牛が動かなくなった。それはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、そこに墓が作られ、905年には墓所に廟が建てられた。安楽寺天満宮の創始。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社であり、また菅公の御霊廟として、篤く信仰されている。なお、後に「廟」の字は朝廷の「朝」の字が含まれているとして「庿」(广に苗の字・環境によっては表示されない)に置き換えられた。 


太宰府駅から続く表参道。土産や名物の梅ヶ枝餅の店が軒を連ねる。道真の没後、京では疫病や異常気象など不吉な事が続いたため「道真の祟り」と恐れられた。これを鎮めるために919年に道真の墓所の上に社殿を建立した。これが太宰府天満宮の始まりである。また、京には北野天満宮が造られた。


表参道の突き当たりにある『御神牛』道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神として信仰されるようになった。現在も参拝客が多く、学問の神様としてあがめられている。 現在の本殿は1591年(天正19)、小早川隆景により再建された。  正面五間の両流造で、屋根は桧皮葺。左右に車寄せ、正面に唐破風造の向拝一間をもち、豪華華麗な桃山時代建築の特色を有す。この本殿と末社志賀社が国の重要文化財。

明治に入り、近代社格制度のもとで1871年に国幣小社に列格するとともに神社名を太宰府神社に変更した。これは北野天満宮が近代社格制度のもと「北野神社」に変更したのと同様に、「宮」号が基本的には皇族を祭神とする神社しか使用できなくなったからである。1881年には官幣小社に昇格、次いで1895年には官幣中社に昇格した。神社の国家管理を脱した戦後の1947年に社号を太宰府天満宮に復した。

太宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通するものの、あとの一つを亀戸天神社・湯島天満宮・大阪天満宮・綱敷天満宮(神戸市須磨区)・防府天満宮などとする説が存在する。


境内末社、志賀社(しがしゃ)幕末1864年、八月十八日の政変により京都を追放され長州に逃れた三条実美ら五卿が、長州から太宰府(延寿王院・現宮司私邸)に移される。(七卿落ち)