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ノート:大胡ヨリ長峰御引越御人数

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当ページの大幅編集のお知らせ[編集]

大胡ヨリ長峰御引越御人数は長岡藩文書の『長岡懐旧雑誌』(「長岡市史双書No.35」所収)の「元和四年午三月二十一日 上州大胡ヨリ御引越之節御人数」の史料により内容を現在のものと大幅に改訂・編集する予定があります。もし、御意見・疑問点等ありましたら、当ノートにお寄せ下さい。

  • 主な変更事項とその理由
  1. 『長岡の歴史 1』において今泉省三氏の指摘、すなわち『長岡市史』引用の古記録は小川当知の「長岡懐旧雑誌」であろうという指摘(同本、pp34・第1章第3節)及び「長岡市史双書No.35」に基づく内容の変更。
  2. 現状の「牛久保から大胡に領地替えになったときの名簿ではないかと指摘する説」を中心とした記述から、本来の大胡から長峰への引越時の名簿および大胡から長岡への直接引越時の名簿の両説による記事構成に改め、「牛久保から大胡への引越時の名簿」とする説については、ここで指摘のもの以外に根拠史料の提示(原史料名・所蔵者名・所収図書情報など)があるまではコメント・アウトすること。
  3. 理由→前掲史料「元和四年午三月二十一日 上州大胡ヨリ御引越之節御人数」には、深沢氏・三間氏・安田氏はいずれも名簿中に記載があるため、記載がないという根拠には疑問が生ずるため。そして、本ページ本文下部に提示の参考文献『長岡の歴史 1』(今泉省三著)は「長岡懐旧雑誌」掲載のこの史料を指摘しているため(安政6年、小山良岱の筆写になる『元和四年長峯ヨリ長岡江御引越御人数』も同本に掲載されているがこれとは別史料)。--故城一片之月 2009年1月20日 (火) 10:28 (UTC)[返信]

長岡の郷土史の書籍などに、長岡藩の三河以来の家臣はおよそ何家あったとするものがよくあるようですが、何を根拠にしているのかわかりません。諸士由緒記に記述が詳細な重臣、牛久保城古図の屋敷の姓名、牛久保以来の足軽組を合計してみなさん言っているのでしょうか。それとも御人数帳などに典拠をおいているのか、そういう点がわかるとよいと思います。

主著者は年始から多忙なうえ、ネット環境がない場所にいるらしく、連絡がとれない状況(ご本人は、昨年末に一時的にも来年には復帰するとメールで連絡があった)が続いているため、私は本文編集には静観しています。--今泉総一郎 2009年1月22日 (木) 17:54 (UTC)[返信]

この件に先立ち、すでに主筆者にはウィキメールにて連絡を送りました。しばらく、待機の心積もりです。--故城一片之月 2009年1月23日 (金) 11:37 (UTC)[返信]