ノート:大河原町

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【1】 歴史項目の「 古くは、宿場町として栄えた。その頃の名残として、町の所々に古い蔵が残っている。」の記述は、上町などに見られる古い蔵が、宿場町時代から存続している蔵と誤解されるのではないかと思い、削除させていただきました。大河原が宿場町であったのは確かですが、町内に散見される蔵は、もっと後世の建築かと思いますので・・・。
【2】町の沿革については、「1956年9月30日に金ヶ瀬村と合併した。」で始まるより、藩政時代の村からスタートした方が良いのではないかと思いましたので、そのような記述に訂正させていただきました。
【3】町名由来項目の「多くの川が合流する地点だからこそ物流の中心となり、物流の中心となったからこそ人が集まり、結果として宿場町となったのであろう。」の記述は、先に交流の場として集落が自然発生し、後に宿場として整備されたかのような印象を受けましたので、ニュアンスを変えて書き直しさせていただきました。大河原宿の場合、原野または農地だった所に宿場が計画的に建設され、それによって、人、物が集散するようになったのだと思います。金ヶ瀬宿も同じことのように思います。 2006年9月2日 (土) 06:43


歴史項目に関する記述について[編集]

  • 歴史項目に、大河原町、柴田町、角田市、亘理町の1市3町合併案が浮上しているとの記述がありますが、大河原町にとって特筆すべきほどの合併案なのでしょうか。特定の団体が主張し始めたばかりの合併案だそうですが、地域に浸透していない合併案は歴史項目に記載するべきではないと思います。むしろ、「角田市および大河原・村田・柴田三町による一市三町合併案」や「仙南二市七町合併案」の方が新聞記事にも取り上げられて、多少なりとも地域の話題になっているのではないですか。
  • 「大河原町が常に合併を志向し続けているのは、町財政が芳しくないため、合併による「アメ(報奨金)」で少しでも財政難を緩和したいという本音があるため。村田町が前回の合併に強烈に反対したのも、村田町の財政は比較的健全なため、合併することに何のメリットないことにも原因があった。」との記述は、何を根拠に書かれたのでしょうか。客観的な判断材料となる町財政指数などが示していない記事は信憑性が感じられません。
  • 以上の二点を持ちまして、歴史項目に記載してある合併案の記載は削除させていただきました。


駅前周辺の補足[編集]

1階の大部分がテナント未定であると書いてありますが、大部分という表現を別の表現に変えたほうが良いと思います。大部分とは、全体に近いことや殆ど全ての意味です。確かにオーガの一階は空きスペースが目立ちますが、大部分という表現はオーバーではないでしょうか。真実一路 2007年5月10日 (木) 09:59 (UTC)[返信]