ノート:大内氏 (源氏)

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『吾妻鏡』によれば大内惟義の名は1219年を最後に記載されておらず、死亡したものと考えられているはずです。 wikipediaの大内惟義の項にもそのように記載されていいます。 1221年の承久の乱に際して後鳥羽上皇側として参陣したのは息子の大内惟信であって、父の大内惟義ではないのでこの点編集したいと思います。