ノート:報徳思想

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報徳教の教えの部分を書きました。ノートで今後の編集方針を相談させていただきたく存じます。 根本思想には至誠を加えたほうがいいのではないかとも思います。どうでしょうか。

出典に基づいてないので全般的にまずいですね。
文意が通らないところもあります。
神仏儒を究極的には一つにいたる異なる道に過ぎないと位置づけ、神仏儒それぞれの概念を自由に組み合わせて説かれている。そのため報徳の教えを報徳教と呼ぶことがあってもそれは宗教を意味するものではない。
「そのため」とは何を受けていますか?「自由に組み合わせ」たからでしょうか。でも、新興宗教だって、既存の宗教の教義を「自由に組み合わせ」て教義をつくりますよね。また、しばしば彼/彼女らは、自分たちの教えは宗教ではない(科学的な思想なのだ)と主張します。
率直にいって「そのため~」の文は、無用に思います;「宗教かそうでないか」というのは周りの人がどうみなすか、だからです。
また、神仏儒を独学で学んだとありますが、出典はなんでしょうか?--Carcar 2011年1月29日 (土) 23:43 (UTC)[返信]

今後の編集方針[編集]

上記で間違ってノートに入力してしまいました。すみません。 こちらでまず議論をさせていただければと思います。

報徳思想の普及活動について


報徳社の歴史や報徳学園など現在の活動について今後書き足していく必要があるとおもいます。必要に応じて内容の順序入れ替え、書き足しをおこなっていきたいと思います。5.11.2006