ノート:地獄温泉

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清風荘のことを「俗化する清風荘」と書き、柴田旅館は「昔の面影を残す」と推奨し、あるいはその内容を「宣伝」と称してコメントアウトする方がいらっしゃいますが、「地獄温泉」といえば一般には清風荘だけの一軒宿と誤解している人が多いくらいに(あるいは一軒宿と紹介しているガイドがあるくらい)清風荘だけが突出している温泉です。そこの特徴的な浴場の紹介が不可能なのなら、他の一軒宿温泉の紹介記事などは、ほとんどコメントアウトにするべきであり、ここだけをコメントアウトにするのは極めて整合性を書くことになります。また、清風荘の写真の上に柴田旅館の写真を掲示するのは、この温泉の実態にあっていないと思いますし、柴田旅館に特別な思い入れのある人の清風荘に対する誹謗にも思えます。皆様の意見も広くお聞きしたいです。 --Bergmann 2007年5月13日 (日) 01:02 (UTC)[返信]

「俗化」ということの定義は?[編集]

「俗化する清風荘」という説明が以前写真の説明にあり、また「秘湯の雰囲気は著しく後退し、俗化している。」という記述が本文の最後にありますが、そもそも俗化とはどういうことでしょうか?以前に比べたら近代化すれば俗化なのでしょうか?大辞林によれば「神聖なものや高雅なものが、世間一般の下らないものになること。俗っぽくなること。ぞくか。 「軽井沢も近ごろはすっかり―してしまった」」とあり、きわめてネガティブな言葉です。確かに清風荘は湯治部の割合が減っていますが、そのことがそんなにネガティブなのでしょうか?秘湯を守る会会員の隣の温泉の旅館などはとっくの大昔に湯治部そのものを廃止しており、宿泊棟も全て新しいものに建て替えられていますが、俗化などという記述はありません。また、「日本秘湯を守る会」の会員で現在の地獄温泉レベルの秘湯っぽさを残しているところは少ないと思います。地獄温泉は以前に比べて秘湯っぽさが減少していることは事実と思いますし、最近はテレビ・雑誌によく紹介され、多くの観光客が訪れていることも事実です。でも、明治初期の建物を大切に使い続けていることも事実ですし、儲かりもしない湯治部を守り続けているのも事実です。私に言わせれば、秋田の鶴の湯などは建物は古っぽいですが、あちらの方がずっと素朴さを失っていると思います。また、柴田旅館を勧めたい方もいらっしゃいますが、あそこの浴室だけだった場合に地獄温泉がここまで有名になったかという疑問を禁じえません。特に反論がなければ「俗化」という言葉だけは変えさせていただきます。--Bergmann 2007年5月13日 (日) 23:09 (UTC)[返信]