ノート:四諦
無名の節
[編集]疑問:涅槃寂静で終わるのは良いと思うが、それだけだとシャカが法を説きに出ることが見えない。さらに、法を説かない覚者は単なる辟支仏とならないか? 説明が必要だと思われる。booze 2007年3月30日 (金) 23:40 (UTC)
203.136.171.99さんの記述は極めて一方的な主観的批判を書き込んでいるので、この部分を整理統合したい。2週間の間意義がなければ、整理統合に着手します。booze 2007年4月12日 (木) 07:23 (UTC)
この上記の記述に関して、「煩悩」を苦の原因とするのには異を唱える。 それよりも、十二縁起から、「無明」を苦の原因とする方が、妥当な思考と言える。 滅諦の悟りから、「無明」を「智慧」に変え、十二縁起でできあがっている苦の構造に影響を与えれば、苦はまたたくまに解放されるだろう。 例えば、ここで言う所の煩悩の元である愛に関して、今まで無明の愛だったのが、悟りを得て智慧の愛に変わり、本当の愛し方が分かるようになり、苦を滅して喜びを得るのが悟りというものであろう。
以上「大乗仏教」的見地。
大乗仏教的見地による「苦を滅して喜びを得るのが悟りというもの」では所謂「涅槃寂静」が成立し得ないと思われる。
「涅槃寂静」とは、求道者の持つ欲である。求道者の行動原理の活力となるものである。求道者は、この欲求を満たされることを最高の喜びとしている。理由は、「涅槃寂静」以降、求める欲が無くなるからである。そこで、最高で最後の境地を得る事で、求道者の欲を求める輪廻は消滅する。
苦を滅するという行為の、最高で最後の欲の対象が、つまり、最高で最後の喜びの対象が、「涅槃寂静」という境地なのである。
仏教的表現を借りると、「求道者にとって、『涅槃寂静』は、喜びであって喜びではない。」という事になるだろう。 (喜び=欲が満たされる事:という事を前提とする。)
という事で、「苦を滅し喜びを得る事」とは、仏教を志す者にとって、「涅槃寂静」への道を進む事になるのである。
- 削除した文言は上記のとおりである。間違いとは断定できないが、用語の理解の仕方が基本的に根本仏教と異なっていることを理解しなくてはならない。booze 2007年5月19日 (土) 00:22 (UTC)
問題点の指摘
[編集]2017/05/22
[編集]5月22日に指摘していた問題点をここにも転記しておきます。
釈迦は[[悟り|さとり]]を得た後、[[ヴァーラーナスィー]]の[[鹿野苑]]において、初めて[[五比丘]]のために法を説いた([[初転法輪]])。この時、四諦を説いたと言われる。[[阿毘達磨大毘婆沙論]]などは、四諦は[[四沙門果]]と同義としている<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『根本説一切有部毘奈耶(義淨譯)』 (T1442_.23.0676c21: ~): 謂四沙門果 預流一來不還阿羅漢 智者謂四智 苦智集智滅智道智 及餘諸智 見者謂四聖諦見。</ref><ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[阿毘達磨大毘婆沙論]](義淨譯)』 (T1545_.27.0553c05: ~): 學謂預流一來不還補特伽羅 迹謂四聖諦 以無漏慧已具見四諦迹故名學見迹 阿羅漢者謂慧解脱或倶解脱。※補特伽羅(ほとがら 梵: Pudgala)の意味には諸説ある。</ref>。
- 「四諦は四沙門果と同義としている」という記述について。その出典とされる、根本説一切有部毘奈耶と阿毘達磨大毘婆沙論からの引用部分(脚注内)に「同義」という語は無い。また、その「同義」という趣旨を、この脚注内のどの語が担うのかも定かでない。
- この記述は、一次資料を二次資料無しで分析・解釈した結果を発表したものですから、独自研究に該当しています。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 07:01 (UTC)
報告 上記6/12から50日ほど経ちましたが、この問題点は解決していません。--Leonidjp(会話) 2017年8月4日 (金) 10:49 (UTC)
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 03:44 (UTC)
2017/08/02
[編集]2017/8/2に指摘した問題点(参照)を、ここにも掲示しておきます。
[[根本説一切有部]]などは、四諦は[[四沙門果]]と同義としている<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『根本説一切有部毘奈耶(義淨譯)』 (T1442_.23.0676c21: ~): 謂四沙門果 預流一來不還阿羅漢 智者謂四智 苦智集智滅智道智 及餘諸智 見者謂四聖諦見。</ref>。
- 出典とされる脚注内には「同義」の語がないし、代わりにどの語が「同義」という文意を担うのか不明。
- 全体として、信頼できる二次資料において未発表の説であるため独自研究の披露に該当している。
7日以内に対応がなされなければ四諦から除去します。--Leonidjp(会話) 2017年8月4日 (金) 10:45 (UTC)
- 利用者:Leonidjp は「根本説一切有部」だけではないだろうと言いたいのかもしれないが、遠まわしながらそう受け取って構わないと言えるのはこれぐらいしか見当たらず、他の経論はどうとでも受け取れる記述になっているから仕方ないであろう。四(聖)諦とか八(支)正道とか十二(支)因縁は、釈迦の説法初期の造語であることはほぼ間違いなく、時代が下るにつれて不可侵性が強まっていったものとみられる。
- 特に四(聖)諦については、近・現代の仏教学者は妄想とも言える解説をするので、リベラルアーツ的にみて厄介な用語ではある。ちなみに、リベラルアーツ的な知見を示すと、神々や悪魔と問答する段階の"音者"は、得て勝手な造語をする傾向があり、私も随分と煙に巻かれたり翻弄された経験がある。これは経験談であって独自研究ではない。--118.83.146.236 2017年8月5日 (土) 18:14 (UTC)
- 報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月14日 (月) 03:30 (UTC)