ノート:唐橋 (大奥女中)

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唐橋について[編集]

奥女中分限帳の天璋院付き女中を確認したところ、唐橋なる上臈は記載されていませんでした。この分限帳は天璋院が御台所であった頃のものですので、唐橋がそれ以降に御付け替えされた女中である可能性も考えられるのですが。それだと文中にある「唐橋は徳川慶福を望んでいた」云々が成り立たなくなります。また、大奥から薩摩藩へと送られた書状(『薩摩藩奥女中文書』)にも唐橋の名は登場しません。この書状は天璋院が落飾して後のものですので、唐橋が御付け替えされたというのも怪しいところです。この人物が存在していたという確証、一次資料があるのでしょうか?--飲んでも飲まれるな 2007年10月24日 (水) 11:52 (UTC)[返信]

一次史料からは残念ですが確認できていません。天璋院関連の歴史雑誌を参考に記事を起こしました。これが誤りだという事でしたら削除しますが、いかがでしょうか。--hat2867 2007年10月24日 (水) 15:37 (UTC)[返信]
なにぶん史料の少ない大奥のことですので一概には言い切れないのですが、大河ドラマをきっかけとして、小説「篤姫」の登場人物を歴史上に存在した人物として紹介している雑誌・文献もあるのでしょう。峰姫付きの上臈・唐橋については三田村鳶魚の著作の中で取り上げられていましたが、天璋院付きの唐橋については架空の人物ではないかと思われます。一次史料がないからといって存在しないというのも極論のような気もしますけどね。--飲んでも飲まれるな 2007年10月25日 (木) 03:43 (UTC)[返信]
宮尾登美子『天璋院篤姫』でも唐橋という名の女中が登場しますね。この唐橋は姉小路の妹とされているのですが、これは宮尾氏の勘違いでこの唐橋は別人なのだと聞いていたのですが、史料にいないですか... 誤伝か欠落か、あるいは改名とか、それくらいですかね。とりあえず保留。--hat2867 2007年10月25日 (木) 06:32 (UTC)[返信]
私としては家定時代の唐橋の部分は一次史料が何かしらの形で出てくるまで本文中から外しておくべきだと思います。大河ドラマの影響で篤姫に関するムック本や又引き本が多数出版されている状況を考えれば、それが一番ではないかと。大奥研究は寛永寺の発掘調査が終わればまた文献としての発表があるでしょうし、唐橋について新しい史料が出てくるかもしれませんので、それからでも遅くはないでしょう。--飲んでも飲まれるな 2008年1月21日 (月) 14:20 (UTC)[返信]

どなたからの反論もありませんでしたので、該当記事をノートに移動させていただきました。

「家定期の唐橋

唐橋(からはし)は、江戸幕府大奥女中。上臈御年寄。 島津家から大奥入りした天璋院付きとなる。天璋院は一橋慶喜の擁立を考えていたが、瀧山や唐橋は徳川慶福を望んでいたという。 」

何か新しい史料や文献が出てきましたら、本文中に戻したいと思います。--飲んでも飲まれるな 2008年1月29日 (火) 09:10 (UTC)[返信]

唐橋=花ノ井について[編集]

姉小路に関する典拠というのは散見できまして、幕末関連本や大奥関連本で確認できます。しかしその妹と言われています花ノ井(唐橋)に関する記述が確認できません。鈴木由起子『大奥の奥』で、唐橋≠花ノ井説が紹介されています。唐橋の出自は高松公祐の娘であり、姉小路の妹である花野井(花ノ井)とは別人物(従姉妹とも)かもしれないと提起されています。

水戸斉昭が唐橋に手を出して、それを怒った唐橋の主・峰姫が父将軍に訴えて斉昭が謹慎させられているというのも有名なエピソードで上記著作にも書かれていましたが、これが史実であるなら年代の特定ができるはずです。また唐橋に子が生まれていれば、水戸徳川家の系譜などに唐橋の名が見つかると思うのですが、その子供についても言及がなされていないように思えます。(上記著作には「はらんだ」としか書かれておらず、出産したとは書かれていませんでしたが)

以上の件を確認し、よりよい記事へと発展させていく事が望ましいと思いますので、恐れ入りますが今までの記述の出典などがありましたら追記をお願いします。--hat2867 2008年7月17日 (木) 15:30 (UTC)[返信]

(追記)履歴を見ましたら、以前高松公祐の娘・種子の事であるとの記述がありました。また参考文献もいくつか記述がありました。なぜ消されてしまったのかはわかりませんが、続きまして検証をお願いします。--hat2867 2008年7月17日 (木) 15:38 (UTC)[返信]
なぜ消してしまったかは当人でなければ分かりませんが、参考文献として挙げられていたのは歴史読本のような雑誌やムック本でした。そもそも存在しない本も混ざっていたことが執筆者のノートで問題になっていましたね。唐橋を公卿高松家の女性だとする部分は私が削除しました。高松家の系譜上にも種子なる女性は存在しませんし、執筆者も参考文献を提示できませんでしたので。
それはいいとして、唐橋を高松公祐の女だと最初に論じたのはおそらく三田村鳶魚です。ですが三田村鳶魚も自著の中で「唐橋は姉小路の妹である」としています。参考程度にどうぞ。『三田村鳶魚全集』は今では手に入りにくいかもしれませんが、大きな図書館などには所蔵されているでしょう。
唐橋の流産の逸話は峯姫の怒りに触れたことに起因するといわれていますが、類型話として峯姫が夫斉脩の側室の懐妊を許さずに堕胎させたという逸話も存在します。どちらにしても信憑性がない話です。水戸家に限らず、子がない側室、流産・死産・子が夭折している側室は軽んじられて系譜上に記載がない場合が多々あります。また、斉昭が老女花野井に送ったとされる文書が『近世日本国民史』に掲載されているそうですので花野井自体は実在した女性なのだと思われますが、「花野井=唐橋=姉小路の妹」説を取っているのは三田村氏の流れでしょう。それ以外の史料もあるのかもしれませんが私は見たことがありません。--飲んでも飲まれるな 2008年7月21日 (月) 09:54 (UTC)[返信]

お返事ありがとうございます。まず「高松種子」の名前は系図で見つけました。土橋定代『公卿諸家系図』かなと記憶しております。ただ詳細は書かれていませんでした。出自高松家説も三田村鳶魚が唱えた事だったのですね。三田村氏は伝聞をまとめた人だったと思いますので、これが限界という事なのでしょうか。『三田村鳶魚全集』を確認するのは骨が折れますが、探してみなくてはいけませんね。

三田村鳶魚の著作から橋本家出身が有名なのですが、高松家出身も無視できないかと思います。鈴木由起子『大奥の奥』がとりあえず出典にはなるでしょう。どのような記述にするか、どなたかご協力願えませんでしょうか。--hat2867 2008年7月24日 (木) 14:14 (UTC)[返信]

「(姉小路とともに)文化元年(1804年)に将軍家継嗣・家慶の御簾中として輿入れした楽宮喬子女王付の小上臈として西ノ丸大奥に入ったが、徳川家斉の御台所・茂子付の上臈御年寄となり、茂子の側近を勤めた。」以上が確認できません。同時にお教え願えないでしょうか--hat2867 2008年7月24日 (木) 14:17 (UTC)[返信]