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ノート:和徳町

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弘前市のホームページには以下の様に記述されています。

元禄9年(1696年)の家臣の城外移転に伴い、和徳村の一部が転移して作られました。江戸時代末期には和徳桝形も設けられ、青森に至る街道筋であったため、商家の屋並みも形成されてにぎわいを見せました。

江戸時代に和徳村の一部を分離して弘前城下に組み込まれ、弘前市発足時点で弘前市和徳町だった筈なので1889年に発足した中津軽郡和徳村は和徳町とは直接関係ないのでは。駅前等が分離したのも和徳町ではなく昭和初期に和徳村から編入した大字和徳のはずですし。

アドバイスありがとうございます。--急行あおもり 2011年12月23日 (金) 00:09 (UTC)[返信]
そもそも、急行あおもりさんが出典として明示している角川の地名事典は、大字和徳と和徳町が混同されているので、出典と使用する際は注意する必要があるようです。--崎宏 2011年12月23日 (金) 22:26 (UTC)こちらの記憶違いでした。失礼しました。--崎宏 2011年12月30日 (金) 13:27 (UTC)[返信]
後日「2 青森県」についても確認しますが、他県の同名を含む大字・町名項目に関する扱いから考えると角川は和徳と和徳町については別項目として扱っているはずだと考えます。おそらく記事に仕上げる際に混同してしまったと予測しますが、崎宏さんはいかがお考えでしょうか。--Himetv 2011年12月24日 (土) 06:20 (UTC)[返信]
弘前市ホームページと角川日本地名大辞典の情報をまとめました。元禄9年(1696年)の家臣の城外移転以前は、和徳町と大字和徳は同じ津軽郡和徳村であったと考えることができますが、以降は以下の歴史を歩んでいることが確認できます。
* 和徳町 - 津軽郡弘前城下の「和徳町」→ 弘前和徳町(明治初年~22年。明治11年~22年は中津軽郡) → 弘前市大字和徳町(明治22年以降)
* 和徳村 - 津軽郡「和徳村」(明治11年以降は中津軽郡) → 中津軽郡和徳村大字和徳(明治22年~昭和11年) → 弘前市大字和徳(昭和11年以降)
以下は角川日本地名大辞典で確認することができた昭和40年代~50年代の新町名です(丁目単位の旧町字の情報はないのでご容赦下さい)。
* 東和徳町 - 昭和41年に大字和徳の一部より新設。
* 駅前一~三丁目 - 昭和41年に大字和徳の一部より新設。
* 駅前町 - 昭和41年に大字和徳の一部より新設。
* 大町一~三丁目 - 昭和41年に大字和徳・楮町・松森町の各一部より新設。
* 表町 - 昭和41年に大字和徳の一部より新設。
* 城東一~四丁目 - 昭和48年に大字和徳・外崎の各一部より新設。
* 城東中央一~五丁目 - 昭和48年からは一~四丁目・昭和50年からは一~五丁目があり、大字和徳・外崎・高崎・高田の各一部より新設。
* 城東北一~四丁目 - 昭和48年からは一~三丁目・50年からは一~四丁目があり、大字和徳・外崎・高崎の各一部。
* 稲田一・二丁目 - 昭和48年に大字和徳・外崎・高崎の各一部より新設。
* 野田一・二丁目 - 昭和53年に大字和徳・高崎・外崎の各一部より新設。
これらの情報をまとめると、現在「歴史」の節に書かれていることは全て「和徳町」ではなく「和徳」の情報となります。また、Himetvさんのご指摘通り角川日本地名大辞典では和徳町と和徳は別項目として扱っており、同じくHimetvさんが推測するように執筆者はそれらを混同してしまったのでないかと考えます。
因みに、明治22年に中津軽郡和徳・高崎・堅田・撫牛子・大久保・津賀野・百田・向外瀬・清野袋の9村の合併によって誕生した「和徳村」(大字は旧村を引き継いだ9大字)のうち大字和徳の全域と大字高崎・堅田の各一部は昭和11年に弘前市に編入されましたが、昭和30年に残部が弘前市に編入されるまでは和徳村(明治22年~昭和30年までの自治体)も存在しました。本件とは直接の関係はありませんが参考までに記しておきます。--Otherde 2011年12月29日 (木) 01:54 (UTC)[返信]