ノート:周易

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徐世大等の説を除去しました[編集]

近代の出土資料によれば、周易は古代からの卜辞の集積から生まれたものがはっきりしてきたことにより、徐世大の説等の成立の余地がなくなりました。最近の知見に基づいて編集を行い、徐世大等の説を除去しました。異論があればノートでの議論を御願いします。--北斗柄会話2012年9月11日 (火) 05:00 (UTC)[返信]

「宋易と風水」の節で説明されている宋学の系統に関する本文の内容について[編集]

本記事のノートを私が書いている時点では、当該記事内で宋学の系統を以下のように説明されているようです。

(以下、現時点の記事より引用開始)

宋代の経典儒としては、『太極図説』を編み「後天優勢、以学為志」を説いた周敦頤(周濂渓、1017-1073)、「気即理」を説き「横渠学」を立てた張載(張横渠、1020-1077)、そして「性即理」「天理」を説いた程顥(程明道、1032-1085)と「心即理」「理気二元」を説いた程頤(程伊川、1033-1107)の兄弟が「理」について異論を唱え、それぞれの学派を形成する。

程顥の系統は、南宋の朱熹(朱元晦、1130-1200)へと引き継がれ「朱子学」となる。

程頤の系統は、南宋の陸九淵(陸象山、1139-1193)へと引き継がれ、さらに明の王守仁(王陽明、1472-1529)によって「陽明学」が打ち立てられ、さらに王畿(王龍渓、1498-1583)、李贄(李卓吾、1527-1602)と続く。

(以上、記事本文からの引用終わり)

この説明は果たして妥当でしょうか。宋学の流れが二分されていると言及することが妥当なのかどうかはともかく(考え方は色々あるでしょうから)、特に現時点で気になりますのは、現時点の記事の本文で

・程顥(程明道、1032-1085)の系統が朱子

・程頤(程伊川、1033-1107)の系統を陽明学系

と説明している点です。現時点の記事ではこのように説明してありますが、これは本当でしょうか?説明として、逆であるような気がするのですが?

たとえば、島田虔次先生の『朱子学と陽明学』(岩波新書)133頁を見ますと、「万物一体の仁」に関する説明で、これが程顥(程明道、1032-1085)に発して、陽明学の柱となったと論じられています。

個人的には宋学の流れについて、系統を二分して言い切るのはむしろナンセンスかなと考えるほうですが、この私個人の意見は置いておくにしましても、現時点の記事本文のように、系統を二分して言い切るのであれば、現時点の説明は、本来の系統の説明として真逆な気が私はするのですけれども、いかがでしょうか?世の中には色々な学説があるでしょうから、勝手にWikipediaの現時点での記事本文を、私の手でいま、大幅に変える(つまり私が言いたいのは、程頤(程伊川、1033-1107)のほうが朱子寄りで、程顥(程明道、1032-1085)のほうが陸九淵や陽明学系寄りに思うのです。)つもりはありませんが、他の方の印象も聞きたいところですね。--Moneyhungryboy会話2021年6月16日 (水) 10:25 (UTC)[返信]