ノート:呉 (十国)

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「南呉」について[編集]

この呼称に確たる根拠があるのか寡聞にして知りません。

中央研究院(台湾)・漢籍電子文献で二十五史その他史書のテキスト中、「南」の語を検索したところ、十国・呉の呼称としての「南呉」は抽出されませんでした。

また、東洋史のあらゆる専著・論文を渉猟した訳ではありませんが、十国・呉を「南呉」と称した文献には接した機会がありません。CiniiNDLで「南呉」を検索しても、この語を表題に冠した論文は抽出されませんでした(本文中でどのような呼称が用いられているかまでは知り得ませんが)。なお、「十国 呉」で検索すればCiniiで1件ヒットし、「秦漢」「宋朝」「明朝」「清朝」などで検索すれば当然ながら相当数ヒットします。

例えとして適切か疑問の余地もあるとは思われますが、以下は三国・蜀の呼称「劉蜀」についての卑見です。

晋書・職官志や宇都宮清吉氏『漢代社會經濟史研究』が三国・蜀を「劉蜀」と称しています。しかし、知る限り「劉蜀」を用いた文献はこの2点に過ぎません。これらは正史と東洋史研究者の著作とであり、確たる根拠ではあるものの、「劉蜀」の呼称が一般に通用しているとはいい難いのが現状です。Wikipediaの三国・蜀の項目に「『劉蜀』とも称される」と書いてみてもそれはトリビアにとどまり、辞典の項目に必要な情報とはいい難いのではないでしょうか。

まして「南呉」の典拠として示されたものが中文版Wikipediaのみという現状では根拠として薄弱に過ぎ、まず確たる根拠が示されて然るべきであると考えます。しかる後、「南呉」と称される事が十国・呉についての情報としてどれほどの価値を有するかが問題となるのではないでしょうか。--Сорасоуё 2008年3月12日 (水) 18:17 (UTC)[返信]