ノート:同和利権の真相

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「毀誉褒貶」の章の、『真相』への批判的見解の一例、「批判は全て党派的対立にすり変えているが解放同盟は政党ではない」について少々疑問。
これは、党派的対立にすりかえているという以上、党派的対立だという批判に対する再批判と思われますが、『真相』シリーズに対する批判というよりも、むしろ論争を概観して「党派的対立だ」と評した第三者に対する批判のようであり、『真相』批判になってないと思うのですが…--Charon 14:40 2004年6月15日 (UTC)

利用者‐会話:210.133.127.14をご覧ください。著者や支持者の「批判の読み替え」に対する批判です。johncapistrano 14:46 2004年6月15日 (UTC)

批判の読み替えに対する批判といっても、前提となる読み替えの例が本文中にないので唐突ですが?--Charon 14:50 2004年6月15日 (UTC)

下にありますよ。並べ方でも文脈が変わるので現状では支持者側の視点に近いですが、あなたも批判は削らないようにお願いします。「同和利権の真相」を批判と見るのも支持者の視点だから除けておいたんですが。johncapistrano 15:00 2004年6月15日 (UTC)

『真相』を批判と見ることが、支持者の視点、とはどういう意味ですか? 『真相』がした「批判」は削除するのに、「(解同が)『真相』を全面的に批判し」とか「(『深層』が)批判を展開した」の批判は残しておくとは随分片寄ってませんか?? あなたの言に従えば、これも解同の支持者の視点だから削除していいことになりますよね。
それと、先述の「批判の読み替え」例にあたるのは、どうも寺薗らの発言とされる「共産党と解同との党派的な対立と誤解されやすいが」のようですが、ここでは、寺薗らが「党派的な対立という見方は誤解である」と否定しているので、「批判を党派的対立にすりかえている」のは、一連の論争を「党派的対立」とみなしている者の方ということになります。それをさらに批判することは、結果的に寺薗氏をかばっていることになるのでは……?
それに、「党派」イコール「政党」ではありません。「党派」はただの烏合の衆でもこう呼びうるが、「政党」は政治結社を指す言葉です。つまり、「批判は全て党派的対立にすり変えているが解放同盟は政党ではない」の一文が『真相』シリーズ批判として成立するためには、寺薗らが「部落解放同盟は政党である」とみなした上で、「批判はすべて党派的対立だ」とでも主張した事実がなければ成立しない。そういう実例を出してほしいものです。--Charon 13:33 2004年6月16日 (UTC)

全体的な記述をする場面でどちらかの視点で書かれるべきではなく、どちらかの視点で書かれている場合には明記すべきと私は書いています。視点が明記されている所については削ってません。批判を党派的対立に読み替えた上で反論しているように見せていると言っているのです。本文もそう書き換えましょうか? johncapistrano 14:58 2004年6月16日 (UTC)

その態度があなたの判断基準ということはわかりましたが、私は同意しません。「批判」は辞書的定義でいうと、要するに相手の欠点をあげつらうという意味で、それ自体に正邪、当否の価値判断は無い。「的確な批判」とか「的外れの批判」のような形容をしてはじめて、筆者の価値判断が出てくるものと考えています。「こうした『真相』シリーズの批判は」と書いたところで、それ自体は正しいとも間違ってるとも判断は下していないので、問題があるとは思えません。
それに、批判を読み替えていると言いますが、寺薗らは批判をすべて党派的対立とみなしているわけではありません。「すべて」と規定した時点で、党派的対立に触れていない論争の応酬一つでも崩壊する。その実例は、改めて引くまでもなく本文中の「論争」の章にあります。これこそ「批判の読み替え」ではありませんか? もう一つ、いつ寺薗らが「部落解放同盟は政党である」に類する反論をしたのですか? 批判を読み替えているのはあなたの方でしょう。--Charon 12:16 2004年6月17日 (UTC)

私は「すべて」という表記にはこだわりませんが、では「党派的対立と誤解される」根拠は何処にあるのでしょうか? 党派であるか否かに拘らず批判していると思いますし、全国連などは中央本部までも批判していますが。論争の場ではないので程々にお願いします。johncapistrano 16:39 2004年6月17日 (UTC)

どうも噛み合わないと思っていたのですが、ひょっとして、「寺薗らは自分に向かってくる批判をすべて“党派的である”という批判にすりかえて、いや違う自分たちは党派的ではない、と反論している」という意味なのですか?
このままでは埒があかないので、いっそ交換条件でお互いの気に入らない記述を削除(またはコメントアウト)することにしませんか。例えばこちらは「こうした『真相』シリーズの批判は大反響を呼び」の部分を削って、冒頭部をもう少し穏当なものにする代わりに「批判は全て党派的対立にすり変えているが解放同盟は政党ではない」を削るというように。もうこれで矛を収めます。

ウィキペディアは本の宣伝の場でも共産党の宣伝の場でもないので、著者の論理をここでそのまま展開するのはおかしいと私は書いています。交換条件にしても釣り合わないし、私が取り引きをする立場ではないので応じられません。記事としての公正さが保てないならばこの記事自体不必要だと私は思いますが、社会的にも論争があると言う方もおられるので、双方からの視点で書かれるならば、在っても仕方ないかと思っています。でもそうならないならば削除した方がいいと思います。johncapistrano 14:26 2004年6月18日 (UTC)

そうですか。言っておくと私は別に共産党ではないし、『真相』に批判的な意見も併記するようにしていますがね。それでは、私は自分の価値観に従ってこの記事を充実させることにします。--Charon 14:36 2004年6月18日 (UTC)

それは何よりです。共産党の方だったとしても論争は望みませんが。johncapistrano 14:47 2004年6月18日 (UTC)

「正当化」について[編集]

寺園氏の反論文の要約として「……正当化できるものではない」と紹介した後で、これに対する再反論のような形で「他の論者も含め寺園に対する批判者が、同和行政に関わる汚職や不正を正当化した、という事実はない」と書き込まれていますが、これは元の論争を見返すとやや的外れな内容です。

そもそもこの部分は、「運動・行政を批判する資格と専門性」の後半部分で、

[疑問4]でも触れたが、わたしはしばしば、これまでの経過を知らないくせにだの、部落の現実を知らなさすぎるだの、あるいは、部落民でないくせに何を言うかだのといった反発に遭ってきた。しかし、京都市の同和選考採用問題をはじめ、わたしが〈同和利権の真相〉シリーズの中で問題視していることは、過去の経過や部落差別の現実を知ったからといって正当化できるものではないのだ。(「運動・行政を批判する資格と専門性 ──角岡伸彦「『同和利権の真相』の深層」に答えて」より引用)

とある記述を踏まえたものであり、寺園氏が同和利権問題を批判した時にしばしば受けたという「部落の現実を知らない」式の批判に対しての反発です。本記事における反論内容の要約としては、本筋でない不適切な紹介のしかたではあったと思いますが、「正当化できない」と言う部分だけに反応して、「寺園の批判者が不正を正当化した事実はない」と反論するのは横道にそれてしまっています。

それに、宮崎氏のコメントが引かれていたので当該インタビューを読み返してみましたが、宮崎氏はこうも述べています。

そりゃ、同対法の運用には問題がありましたよ。利権も生じましたよ。はっきり言って私はそれでもいいじゃないかという意見なんですよ。(『「同和利権の真相」の深層』13ページより引用)

ここではっきり正当化していますが……「他の論者も含め寺園に対する批判者が、同和行政に関わる汚職や不正を正当化した、という事実はない」という文章自体、事実に反しています。コメントから都合のいい所だけ抜き出して「なかったこと」にしているのではありませんか?

上記の部分は混乱を招くだけなので、上記の反論内容紹介ごとコメントアウトしておきます。--Charon 2006年6月24日 (土) 01:21 (UTC)[返信]


「正当化」云々の部分が、この節の主題とは外れた方向に行ってしまったという指摘には同意しますので、結論としては、コメントアウト処理に賛成します。

ただし、後段の部分には異論があります。

Charon さんは宮崎氏のインタビューの全体的な趣旨を把握した上で書き込みされていらっしゃいますか?下記引用のような箇所を見れば、宮崎氏が、同和行政にまつわる個々の不正を「正当化」しているなどという理解が間違っていることは明らかです。

「まず、一般的な話として、何らかの形で特権があれば、その周辺には必ず何らかの利権は生まれるんですよ。その利権が合法的なものか不法なものかは、それとは別の問題なんです。合法・非合法について良い・悪いは言えても、利権が発生するいうことは、良い・悪いを超えた話ですよ」(11頁上段)

「だけど、私は、違法行為はパクれ、と言うとるんですよ。公金詐取があったんならカネ返せ、と言うとるんですよ。俺らは悪くない、おまえらが悪いんやから、パクったらいかん、カネ返す必要ない、と言うとるんやないんです」(15頁上段)

「だから、特権というのも、そういう団体の権利の一環として使えばいいんですよ。そうすれば、問題はない。たとえ、そういうふうに使っても、多少の利権は生じると思いますよ。それは避けられないですよ。でも、生じた利権が違法行為に走れば司法にやられてもしょうがないし、運動にとって害になるなら切らなきゃならない。それだけの話ですよ」(18頁下段)

「利権については、先日しゃべったとおりですから、くりかえしません。利権が生じるのは当たり前だということをふまえない利権論は、みんな、中学校のホームルームで学級委員がしゃべっているようなもんや」(41頁中段〜下段)

「権力は腐敗する。絶対権力は絶対的に腐敗する」という警句があります。Charonさんによる引用箇所を含め、宮崎氏が利権について述べているのは、それと同様のことです。Charonさんはこの有名な警句を、「権力の腐敗を正当化」するものと解釈されるのでしょうか。222.150.239.215 2006年7月2日 (日) 06:33 (UTC)[返信]

前のコメント後段の部分は、確かにこちらの読み違いでした。読み返してみると「特権を付与して利権が生じるのは当たり前、その特権を行使した活動の中で違法行為があればパクればよいだけのこと」という宮崎氏の論旨の前半部分を、氏一流の過激な表現であらわしたところで引っかかったんですね。後段部分は取り消します。すみません。--Charon 2006年7月3日 (月) 12:44 (UTC)[返信]