ノート:吉田の火祭

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小山田信有について[編集]

「浅間明神と諏訪明神社」節で言及されている郡内領主の小山田信有ですが、戦国期小山田氏の当主は越中守、出羽守、弥三郎の三代が同じ「信有」の諱を名乗っていて、具体的にどの当主に該当するのか確認する必要があろうかと思います。--でここ会話2012年12月10日 (月) 14:01 (UTC)[返信]

でここさん、さかおりです。いつもお世話になります。小山田信有の件なのですが、当該部分について出典として使用したのは、山梨郷土研究会編集『甲斐路』101号2002年8月20日発行、pp.64-66、星野芳三著によるものです。この中で(以下引用‘天文17年(1548)には富士山神事についての文書、永禄2年(1559)には軍功祈願状など小山田信有の文書が諏訪明神宛に発給されており、’引用終わり)とあって、諱を名乗った信有が具体的に誰(当主)を指すのかの明示がありませんでした。他の文献で同様の記載が存在しないか、当記事で主に用いた文献の富士吉田市教育委員会編集『吉田の火祭』2005年3月31日発行も、くまなく読んでみたのですがありませんでした。とりあえず、ここでの当主が誰なのかを具体的に示したものが確認できなかったので、小山田信有とだけ記述したのですが、単に小山田氏と表現したほうが良いのでしょうか?前述した星野(2002)p64での天文17年、永禄2年の年号を見る限り、小山田信有 (越中守)は無いと思います。小山田信有 (出羽守)小山田信有 (弥三郎)のどちらかだとは思うのですが、現状では出典となる文献が見つからないのです。何らかの文献が見つかれば良いのですが、どうしたものでしょうか?よろしくお願いします。--さかおり会話2012年12月10日 (月) 14:45 (UTC)[返信]
とりあえず上記の「信有」の諱の件については、脚注による注釈を加えておきました。--さかおり会話2012年12月17日 (月) 02:14 (UTC)[返信]