ノート:司馬遼太郎

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

作品について[編集]

『ロシアについて』という作品がありました。小説ではないのですが,エッセイといえるか判断しかねますので、どなたか知識のあるかたに編集していただきたい。 また。『中国について』という対談をまとめた物も有った気がします。219.122.166.216 2005年2月21日 (月) 08:59 (UTC)[返信]

上記にある「ロシアについて」を拝見したことがあります。確かに小説ではなく、確か「街道を行く」に関連する作品だった記憶があるのですが、やはりエッセイのような印象がありましたので、当座エッセイに入れても良いのではと思います。しかしながらうろ覚えのことでして、できれば他の方のご意見も伺えればと存じます。「中国について」は存じ上げませんので何ともお返事できませんで申し訳ありません。--soramine 2005年3月20日 (日) 15:18 (UTC)[返信]
かなり時間がたってしまいました、一番上の文をかいた者です。その後『ロシアについて』を入手しました。小説ではなく、エッセイに分類して間違いないとおもいます。内容は「菜の花の沖」や「坂の上の雲」の執筆の際に入手した資料などからロシアの民族や歴史に関して(1989年当時)作者が感じたことをまとめたものです。一方『中国について』ですがこれは『中国を考える』という作品でしたので、訂正します。それから、一番上の文に署名をしていなかったので、履歴より署名を追加します。Bentley 2006年1月29日 (日) 22:18 (UTC)[返信]
本筋からそれた情報かもしれませんが参考までに、「中国とは何か」(上)(下)と題し、1993年に台湾で行なった講演内容をまとめた小文があります。『司馬遼太郎が語る日本』未公開講演愛蔵版Ⅵ完結編、朝日新聞、124~141ページ。--Kogane 2006年1月30日 (月) 9:59 (UTC)

作家評について[編集]

私も現在の作家評はバランスが取れていていいと思います。この部分は変に手を加えないでいて欲しいものです。


前のヴァージョンの「作家評」について、量も少なく評価も偏っている旨、この欄に書かせて頂いたのですが、その後、130.54.120さんが、大変立派な改訂版を寄稿されました。どうも有難うございます。内容も基本的に異存はなく、大変勉強になったのですが、司馬の合理主義者としての面を強調し過ぎのような気もします。初期作品は幻想的なものが多いですし、新聞記者時代に山岳部の寺で超常現象を目撃したことがあるとか書いていたような気もします(記憶違いかも知れませんが、確か、初期の『街道をゆく』)。ただ、幻想的な作品を書いても、それにのめり込まず、「こんな馬鹿なものを信じるのも、人間の可愛いところだ」見たいな、突き放した感じは確かにあるかも知れません。222.12.196.61 2005年7月23日 (土) 10:58 (UTC)[返信]


作家評の部分が大幅に加筆され、興味深く拝読しましたが、どうも「ひいきのひきたおし」の観があります。 司馬を合理主義者とする見方はかなり一般的ですが、はたして本当でしょうか?また、彼の作品には膨大な資料をそろえて書かれたものがありますが、それが即、考証的な方法論といえるでしょうか? 私見ですが、司馬のスタイルには「合理的なものに対する憧憬」ではあっても、それ自体はさほど合理的ではないように思います。


上にも書かれているように現在の版の作家評は、司馬擁護のために筆が走りすぎているように思います。 以下に、私の疑問点を挙げます。もし改定される機会があれば、私の疑問が解決されることを願います。 【】内が現在の版の該当部分、続いて私の疑問点を書いてあります。

【特徴としては、つねに登場人物や主人公に対して好意的であり、作家が好意を持てる人物しか取りあげない。そのことによって、主人公に対して作者の持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長して、ストーリーのなかに読者を巻きこんでゆくという手法をとることがきわめて多い。】

『殉死』『幕末』など、人物や題材にシンパシーを感じなくても否応無く書かなければならない、と司馬自身が語っている作品も少なくないと思われます。「主人公に対して作者の持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長して、ストーリーのなかに読者を巻きこんでゆくという手法」と書かれていますが、具体的にどんな手法であるのか示されていません。読者が主人公の考え方なり経験なりを追体験して共感なり反感なりをもつのは、別に普通の事で、ことさら司馬の”手法”の話ではないと思います。

【高い実証性を持った歴史小説の形式を確立したのも司馬の大きな功績であり、それまで所謂史伝ものか、荒唐無稽な講談風の歴史小説しか存在しなかった社会にあって、歴とした知識人が上質な娯楽として読むに足る程度の高い歴史小説を書いたことは特筆に価するだろう。】

ここでも”高い実証性”という言葉が、具体的に何をさしているのか不明です。また、司馬以前の歴史小説について「それまで所謂史伝ものか、荒唐無稽な講談風の歴史小説しか存在しなかった」というのは、明らかに認識不足です。また、仮にそうであったとしても、史伝ものや荒唐無稽な講談風の作品が”歴とした知識人”の”上質な娯楽”となり得ないという記述も、あまりに硬直した見方ではないでしょうか。

【また、作品中の人物像の内面的描写にはそれほど深入りせず人物像が浅薄であるとされたり、長編では主題が破綻しているとの批判もあるが、これは多くの登場人物を一筆書きにしながら主なる筋を展開してゆく司馬の方法論においてはある程度仕方のないことがらでもある。】

なんとなくわかったように思わせる文章で、うっかりすると納得しそうですが、考えてみると「多くの登場人物を一筆書きにしながら主なる筋を展開してゆく司馬の方法論」という部分は具体的には何も言っていません。”一筆書き”というのもどういう事を指しているのか、よくわかりませんが、後段で出てくる「雑多な人物がつぎつぎに登場し、ゴシップを振りまいてはきえてゆくというグランド・ホテル形式」風の書き方というのであれば、それはまさしく、先に”上質な娯楽”となり得ないと批判した史伝ものと、どう違うのでしょうか。

--61.120.211.33 2005年8月6日 (土) 13:18 (UTC)[返信]

「念仏平和主義」について[編集]

司馬遼太郎氏の発言とされる「念仏平和主義」が、平和主義にリダイレクトされていたので、こちらに変更させてもらいました。ノート:念仏平和主義でも質問されていますが、ごちらの出典をご存知の方がいらっしゃいましたら、それを本文中に示しつつ、一つのエピソードとして紹介する等していただきたいと思います。-Wizwerdgbz 2006年9月9日 (土) 05:31 (UTC)[返信]

「太平記の時代」について[編集]

歴史小説家の大家である司馬遼太郎は、何故か太平記の時代については名著がない。 本人が意識して書かなかったものと思われる。 その理由は、同時代の歴史小説家に「永井路子」がいたためだ。 永井路子は奈良・平安・鎌倉・室町時代の作品を得意としていた。 司馬遼太郎は永井路子の原典検証的作風に畏敬の念を抱いていたと推察される。--以上の署名の無いコメントは、202.180.186.186会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2006年11月4日 (土) 19:24‎(UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。

ペンネームについて[編集]

ペンネームの「司馬遷に遼(はるか)に及ばず」という話は創作。

・どの本かは忘れてしまったが、編集者と電話でペンネームを決める際その当時たまたま読んでいた史記が机の上に偶然あったにすぎず、深い意味はあまりない。

・彼の本をよく読むがそういう話を本人から直接聞いたことは一度もない。

・もともと形式に拘る人ではない。--以上の署名の無いコメントは、203.135.224.145会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2007年6月7日 (木) 16:55‎(UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。

ご本人に近しい方でしょうか? そうだとしても、本文に反映させたいなら第三者にわかる根拠を示していただく必要があると思います。--+- 2007年6月8日 (金) 22:02 (UTC)[返信]
いいや違う。だが確かに本で読んだ。
「司馬遷に遼(はるか)に及ばず」という話ももともとは噂だったかと思われる。--以上の署名の無いコメントは、203.135.212.149会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2007年6月9日 (土) 15:38‎ (UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。[返信]
・新潮社版「司馬遼太郎が考えたこと2」の中に<遥かなる司馬遷>の項目がありペンネームについて記してあります。 ー略 司馬遷の姓を借りることにし、名を遼とした。司馬ヨリモ遼(ハルカニトオシ)とシャレたつもりであった。ところが司馬遼では国籍を間違えられると思い、太郎をつけた。-略

 初めてここへ来ましたが?部分がいくつか有ります。正確性を保つため編集には「司馬遼太郎が考えたこと」「この国のかたち」くらいは読んで頂きたいと思います。             2016年8月12日(MU1951)

再び“作家評”について[編集]

おじゃまします。私も学生時代に熱心に読んだ者です。本文をさきほど少し編集させていただきましたが、司馬については賛否いずれにせよかなり白熱した内容になってしまうのではないかと思います。自分でいじっておいて何ですが、ウィキペディアは百科事典なわけですから、いっそこのあたりは思い切って削除するか数行で淡々と述べるべきではないかと思います。「一般には〜と評される。しかし一部では〜とも評される」のような感じで。私は当分触るつもりはありませんので、みなさまのご意見を賜りたく思います。--てら1971 2007年12月21日 (金) 10:46 (UTC)[返信]

どうも。作家評の一部をなす歴史観について記述した岩見浩三と申します。私も司馬氏のエッセイの幾つかは楽しく読ませてもらったクチなのですが、批判的な風潮についても理解はしています。元の文章は熱烈なファンの方によるものだったようで、中立性を欠くと判断し、手持ちの資料で司馬氏に触れているものを使わせていただきました。また、司馬氏はエッセイや批評という形でもご自身の考えを数多く表明されておりますので、小説だけを司馬氏の価値観とすることは不可能です。編集にあたりそうした事を重視しました。それでも検証レベルが甘い部分があるのは承知しております。ですが、削除してしまうと同じような偏った意見の羅列になってしまうので、出典が示せるものであれば、どういう評価を載せても良いのではないかと。例えば、「○○は▲という雑誌の何月号で~と述べた」という類ですね。後は、代表的な批判派、擁護派、中間派に分ける手もあります。擁護派については司馬作品の解説を文庫本につけている方、司馬氏の作品の出版元などは大抵そうではないかと思います。国民作家として彼がのし上がったことについては『中央公論』2007年1月号で好意的に採り上げた記事があります。まあ中公や春秋は利権上批判しないのは当然でしょうからその辺は留意するべきかと。
中間派と批判派は、色々調べてみましたが、中央公論の2008年1月号とか昨年週刊朝日で連載した司馬作品の批評とか、小林よしのりとか、私がコメントアウトした自衛隊系の研究誌『陸戦研究』とか、『坂の上の雲では分からない日本海海戦』とか、『作家の値打ち』あたりを各々の方があたればいいかなと思います。あとは月刊の論檀誌の目次を図書館であさらないと行けないので手間はかかりますが、可能ではあるでしょう。とりあえず把握したのは『東京人』2007年8月号(中間)、『世界』1998年1月号(批判系)、『ダ・カーポ』2005年9月7日号、『論座』2006年1月号は中間派ですかねぇ。批判は主に部数の少ない雑誌(『表現者』2005年7月号とか)や学会の専門誌でやる傾向にあるようですね。他には、他の作家の作品解説でその作家を褒める為に司馬氏を生贄にして批判するという手法があることに注意すれば多分みつかるのではないかと。押井守は佐藤大輔を褒める時にその方法で「司馬は酷い悪文」とか書いていましたし。あと、褒めるのが過ぎて「○○(掲載当時の時事ネタですね。不況とか紛争とかです)を司馬は予言していた」「○○を司馬は警告していた」という記事も幾つかあるようですが、これなんかは司馬氏の権威を傘に持論を語る類ではあります。幾ら類似性が見られたとしても司馬氏がそう発言した訳ではないですから。参考のために一応コメントしておきます。
iwami 2008年1月16日 (水) 01:25 (UTC)[返信]

ペンネーム[編集]

誰かペンネームに言及した箇所を知らないか? 知ってたら変更できるのに。 安部秀俊--116.94.191.181 2008年5月14日 (水) 00:09 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

司馬遼太郎」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月28日 (木) 09:40 (UTC)[返信]