ノート:南部茂時

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削除箇所の 「南部茂時を甲斐守義重として南部義重とする説(『南部史要』)も存在する。」 の箇所は私の元記事として上記の記事が、記憶ですが、近世こもんじょ館の記事としてのった事があり

以下の記事です

 関連  右馬權頭茂時について、南部家系図説と、北条系図説      の二説があります。

 南部家の伝によれば、正慶二年鎌倉幕府滅亡の時、執権北条高  時に殉じ鎌倉東勝寺にて自刃した茂時は三代時実の孫義行の長  男(南部史要は二男に作り、甲斐にあって、甲斐守義重と称し  たという)で、母は北条氏によって、北条高時の信任厚く、鎌  倉幕府に出仕、糠部の領地は弟伊予守信長が預られていたと伝  えています。

これを鵜呑みにしていた為、南部茂時と南部義重が同一人物だと 書いてしまいました。 今回、『南部史要』の原書昭和47年再発行版で確認したところ、そのような 記事は無かったので、訂正させて頂きます。--真実一郎 2010年6月17日 (木) 15:19 (UTC)[返信]