ノート:千葉さな子

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小田切家墓所の件[編集]

  • 本日修正した部分の上記の部分ですが、小田切謙明は明治26年4月に亡くなっております。明治29年に亡くなったさなの死を知るわけもなく、「ザ・やまなし」(山梨日日新聞)「佐那の愛」によると、妻、豊次が建立したとあります。--Suttokodokkoi 2010年7月3日 (土) 11:24 (UTC)[返信]
小田切謙明と千葉さな子の関係ですが、明治26年「女学雑誌」の記事において、「謙明翁の墓に展し且つその家政整理を幇助せんが為」とあり、生前から何かしらの知縁があったと考えられております。また、昭和11年「小田切海洲先生略伝」においては謙明が鍼灸治療のため上京していたときに千住の千葉さな子を訪れたとされており、また謙明の墓碑銘が板垣退助の筆であることから、板垣を介して紹介された、とする記事もあるようですね。二人の間には何かしらの知縁はあったのでしょうけど定かではなく、謙明の没後には未亡人とさな子の交流があった、ということではないでしょうか。--でここ 2010年7月12日 (月) 07:09 (UTC)[返信]
  • まぁ、板垣に紹介されたという出典が板垣の日記にあれば信憑性が高まりますが、分骨、生涯独身の記述はさなの死後から40年も経過し、書かれておりますので、妻の豊次氏がさなの死後における境遇や、義憤から甲府へ建立したと考えるのが筋でしょう。谷中霊園に分骨願や改葬願(いずれも公文書)が出ればなおさら信憑性が増しますね。別に小田切家を責めてる訳ではなく、豊次さんの心意気だったものが伝わらなかったのが残念でノートに補足記述したのがきっかけですので、信憑性が増せばこれはこれで楽しみですね。--Suttokodokkoi 2010年7月12日 (月) 17:41 (UTC)[返信]
そうですね。ただ、謙明とさな子に生前からの接点があったことは事実であろうと思いますので、その点をご確認いただくために資料提供いたしました。以下は余談ですが、小田切謙明と千葉さな子の関係はなかなか興味深いですね。わたしも山梨の民権運動史について若干書いておりますが、当時の民権家にとって坂本龍馬は知名度があったのであろうなと考えますし。ただ、この件について研究されたりした文献がなかなかないのですよね。さな子の婚姻の事実がわかったことも興味深いですし、大河ドラマを機に周辺調査が進めばいいなぁと思っております。--でここ 2010年7月13日 (火) 08:04 (UTC)[返信]

もう一つの千葉さなのお墓について混乱を招くためこちらに話題を[編集]

記事からいくつか抜粋しますが、 実は、千葉さなのお墓に関してニュースがありました。 熊木庄之助 (千葉さな子の妹はま旦那)によって、さな子の死後谷中霊園に埋葬。 その後、きゅう治院の経営を巡り親族で争いあうことになり、その結果お墓を放置 戦後谷中霊園が整理される際に引き取り手が現れず、八柱霊園にてほかの埋葬者と一緒に無縁塚へ合葬されたとのこと。 今回、熊木家の直系の子孫である。庄之助の孫 熊木慶忠さんにより無縁塚とはゆかりのある者として忍びないとのことで無縁墓改葬許可をとり、無縁塚から採取した土を入れた骨つぼを、熊木家の菩提寺にある熊木家の墓へと移す。今年没後120周年の節目にて命日の10月15日に法要を営むとのことです。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160815-00010000-chibatopi-l12

ニュースを元に記事にまとめました。--Nami-ja(凪海) 会話 / 履歴 2016年8月15日 (月) 10:50 (UTC)[返信]