ノート:十八松平

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出典は成島司直の改正三河後風土記、三州十八松平家の事。

に記載されています。歴史読本の類を出典に主張するのは、おやめください。

定説ではなく、幕府の奥儒者(将軍の侍講)の成島司直が編纂した改正三河後風土記(歴史書)で明記しているものです。--Reonareona 2008年10月26日 (日) 05:49 (UTC)[返信]

歴史読本説は中村孝也氏の主張を指摘しただけで全体を否定することにはなりません。分かりにくいと思い出典を明記しました。また、『改正三河後風土記』の件ですが、『改正三河後風土記』=「出典」とするので、この記述が「初出」または「正統」な十八松平ということですよね。その根拠は何でしょうか?独自研究でないように根拠を出してください。なお「幕府編纂物に記載されるから」では説明になりません。「幕府編纂物に記載されるのでこれが十八松平の出典だろう」と主張する論文書籍類が必要です。また貴殿の主張が正しいとしても、様々な書物で十八松平に含まれる松平家が異なるのは事実です。差異を述べる必要があります。--KurmUmy 2008年10月26日 (日) 06:50 (UTC)[返信]
戻されたので更に追加説明。「十八松平」は松平分家の総称で使われることがあります。「十八松平」は正式には十四松平だという説(中村孝也説)さえあります。そのため十四松平も入れました。また、徳川本家は除いていません。冒頭にも十八松平の節にも記載はあります(安城松平表記ですが、表記改変に反対しません)。十四松平が先なのは、各説の提示の際、十四松平が共通なので示しやすかったからです。ここは「十八松平」の語を説明するのであって、「改正三河後風土記に記載される三州十八松平家」の説明ではありません。上で指摘した出典が示され、改正三河後風土記説が正当性が検証されるなら修正しましょう。現状では「十八松平は改正三河後風土記に記載があり、江戸時代には既に使われていた」などで表現せざるを得ません。(個人的には最古の出典事例かなと思いますが)--KurmUmy 2008年10月26日 (日) 11:39 (UTC)[返信]

出典がいずれも歴史読本の類であり、また改正三河後風土記の記述をあなたは否定しており、独自研究である。要約に直リンクを張っており、それを読めば誰もが納得できるが、あなたの出典はいずれもネット上で確認できず、十四松平の話しに摩り替えるなど、独自説でしかない。--Reonareona 2008年10月27日 (月) 03:31 (UTC)[返信]

あなたの出典の出し方(近代デジタルライブラリのアドレス直貼)は利用者:オタスケマンの操り人形にそっくりですので控えたほうがよいですよ。とにかく、要約の直リンクから分かるのは、改正三河後風土記に「十八松平」が記載されていることのみ。これが「出典」つまり他とは違うと主張する書籍論文を出してください。ネット上に文献の全てがあるわけでは無いでしょう!NDL-OPACをお調べになりましたか?なお十四松平の指摘は歴史読本ではなく中村孝也氏や平野明夫氏の著書によるものです。私は色々な説を挙げており改正三河後風土記説も含まれます。貴殿こそ改正三河後風土記説しか認めていないでしょう。学者の論文・著書を出しています。変な反論より原典以外の出典を示し下さい。貴殿の主張は改正三河後風土記の貴殿による解釈に過ぎません。--KurmUmy 2008年10月27日 (月) 08:56 (UTC)[返信]
二者での議論はあまり良くないので告知テンプレートを貼り付けました。第三者の意見があれば集めて見ましょう。--KurmUmy 2008年10月27日 (月) 09:32 (UTC)[返信]

初稿をUPされた方が、松平の分家を十八家と数え、それが間違っているため、徳川本家を筆頭にその他分家は17家という改正三河後風土記の記述に遵守しただけで、こちらの主観が入る余地はない。十八公の解説も、後風土記に載ってる。

十四松平の記述のあるサイトが検索結果散見されるが、その出典(徳川の歴史書)をまったく提示されておらず、研究者の独自論と思われる。十八松平に至っては、ほとんどヒットせず、2ちゃんのスレッドくらい。国立国会図書館でも検索ヒットゼロ。

松平氏の諸家の総称あるいは解説は、松平氏の項目で提示すればいいだけのこと。十八松平のページで、十八松平はどこの家が該当するのかの議論は無意味、後風土記に明記されている、幕府の重臣が作成したものである。--Reonareona 2008年10月27日 (月) 11:52 (UTC)[返信]

「研究者の独自論」を貴殿の独自研究と同一視するとは呆れます。…私はその研究者の名前・著書を提示しています。研究者の独自論はれっきとした仮説ですよ。あなたの十八松平観を述べる場所ではありません。なお、NDL-OPACを出したのは「インターネット上で史料が確認できる」のではなく、私の明示した書物が存在することを示します。というか国史大辞典くらい見てください。とりあえず第三者の意見も聞きたいですね。--KurmUmy 2008年10月27日 (月) 13:51 (UTC)[返信]

ブロックされた利用者:オタスケマン 利用者:東京ウォーカー 利用者:時空の旅人 利用者:Fujisannfujiasan 利用者:梁山泊智多星呉用をはじめとする人々に共通するのは、出典情報が明確な第一級史料を持つもの以外は、ウィキペディアの歴史関係のページから排斥・消去するという姿勢です。第一級史料が前提とすることがウィキペディアの編集方針となれば、利用者:Reonareonaの編集方針は、破壊的な投稿合戦をしない限りはある程度は、認められるでしょう。しかし、歴史は史料学的には出典不明確であっても、書籍(歴史読本?)の出典があることがあり、これの取り扱いが問題になります。また歴史伝説の取り扱いも難しいところです。ウィキペディアの歴史記事については、出典情報の明記は求められても、第一級史料の出典情報がなければ、記事にしてはならないというルールはありません。こうしたことに利用者:Reonareona氏が不満であれば、井戸端などで議論をして新しいルールを構築してください。現在のルールの下では、利用者:KurmUmy氏を支持。 --今泉総一郎 2008年10月27日 (月) 15:35 (UTC)[返信]


史料通信叢誌 [第3冊]第3編

明治時代の史料一覧表のようなもんですが、改正三河後風土記を出典として、三州十八松平が掲載されています。私が最初ではありません。要約に直リンクを張りました。御覧ください。--Reonareona 2008年10月29日 (水) 10:08 (UTC) 時系列が乱れていたようなので末尾へ移しました。--KurmUmy 2008年10月30日 (木) 14:35 (UTC)[返信]

ご提示の史料は国会図書館近代デジタルライブラリの『史料通信叢誌』第3編[1]ですね。さて、『史料通信叢誌』なのですが、発行元たる史料通信協会の会員が集めた旧蹟・古文書・絵図を題材別に史料としてまとめ発行した書物で、研究のための史料提示が目的です。つまり、『改正三河後風土記』を出典として十八松平を解説したというより、『改正三河後風土記』の三州十八松平の記事を史料として提示しているのではないでしょうか(十八松平の史料が他に無い可能性もありますが、全史料を総括して出してはいないので判断できない)。史料集成の類で私は判断しかねます。なお、利用者:Reonareona氏にお聞きしますが、松平庶家としての「十八松平」(「松平氏」『国史大辞典』など出典)の記載に関してはどのような意見なのでしょう?--KurmUmy 2008年10月30日 (木) 14:35 (UTC)[返信]
「十八松平」の用語が史料上で確認できる史料として、冒頭に『改正三河後風土記』を挙げ、十八松平の節で含まれる家について述べるのはどうでしょうか。後代の学者が「十八松平」を松平庶家のみで使用しているのは明らかです(『国史大辞典』、中村孝也『家康の族葉』、平野明夫『三河松平一族』など)。反対するのなら根拠ある理由を述べてください。--KurmUmy 2008年11月2日 (日) 14:37 (UTC)[返信]
一週間ほど経ちましたが、反対意見が出ないようなので編集しました。--KurmUmy 2008年11月11日 (火) 12:14 (UTC)[返信]