ノート:劉貞

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今の版を編集した方に質問です。

>その末裔が劉備であり、彼が皇帝となると、劉勝・劉貞父子を祖とする先祖代々の廟堂を建てたと記されている(蜀志先主伝)。

先主伝のどこでしょうか?章武元年4月のところには「宗廟を建てて高祖以下を祭った」とはありますが、劉勝や劉貞を祖としたかどうかわからないのですが、ここ以外に記述があるなら教えていただけないでしょうか。

>裴松之は、この劉貞を劉備の始祖とする系譜について、下記のように述べている。 「先主は孝景皇帝の皇子の中山靖王劉勝から出たと言っても、遥かに世代数が疎遠で、代々の当主の諱や順序が不詳で抽象的な印象が濃厚である。先主自身が漢の後継者として、何帝の皇子を開祖とする親廟建立の意義の明確すら乏しく、確証性が皆無だと私は判断をせざるを得ない」と。

これは先主伝の注でしょうか?上と同じ章武元年4月のところにある注では「先主(劉備)は景帝の子孫だとは言っているが、何代も後であり世代も明らかではなく、漢王朝の後継者となってもどの皇帝を元祖として廟を建てたのか知らない。このときは英賢が補佐となり儒者が官についていたのだから、宗廟の制度も定まっていたに違いないが、記録が欠けている。惜しいことだ」(訳が誤っていたらすいません)となっていますが、少なくともここでは「抽象的な印象が濃厚である」とか「確証性が皆無だと私は判断をせざるを得ない」とかいったことは言っていないように思います。
私が取り上げた部分以外に根拠があるのなら私に教えてください。万が一、私が取り上げたのと同じ部分が根拠になっているというなら、もう一度その部分を読み直して見てください。あなたのその訳(解釈)は意訳や足りない部分の補足というにはあまりに飛躍しすぎ、歪めすぎではないでしょうか?

回答がいただけるまではコメントアウトしておきますね。--てぃーえす 2007年12月9日 (日) 22:43 (UTC)[返信]

そろそろなんらかの回答や意見をいただいてもいいころだと思うのですが、上記の疑問への回答が無いのであれば近いうちに削除します。--てぃーえす 2007年12月16日 (日) 07:03 (UTC)[返信]