ノート:利根軌道

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馬鉄時代の渋川付近の駅名について[編集]

出典とされている宮田憲誠 『遠い日の鉄道風景 - 明治のある日 人車や馬車鉄道が走り始めた』という書籍について気づいた事を少々。

  • 巻頭カラーページに右から横書きで「橋新 京東」と記してある写真絵葉書に「東京馬車鉄道 土橋付近(明治中期)」のキャプションが付いているが、これは明らかに新橋。
黄色に手彩色されている博品館の立地は新橋北詰の西側だが東側に写っていて、馬車鉄道も左側通行のはずが右側通行になっている。銀座方面から新橋を渡ってきた軌道が西側にまがっているが、実際は東側の土橋方面に曲がっていた。つまり画像が左右逆転状態である。絵葉書作成当時、ポジを裏焼きしてしまったもの。
  • 58頁の「(日光名所)日光橋」という写真絵葉書の説明で、59頁に牛車軌道が日光橋を通行していた旨の記述がされているが、1893年(明治26年)開通の牛車軌道は日光橋東側の専用の木造トラス橋を通って日光停車場の裏手まで旧道上を通じており、開通当時木造橋であった日光橋や、1904年(明治37年)に架橋された鋼製の日光橋を通行していた事実はない。
  • 「あとがき」252頁で、東京馬車鉄道は凹型レールにフランジレスの車輪を使用していた旨の記述があるがそうした事実はなく、いわゆる溝付きレールにフランジ付き車輪であった事は現存する多数の写真を見れば明らかである。

当方が気づいた分だけで明確な事実誤認が3件あります。

著者は緻密かつ詳細な調査を実施する一方で、失礼ながらこれらの案件に関しては「調べ漏らした上に裏も取らなかった」事になります。こうした事実認定に関するエラーは資料としての信頼性に影を落とすもので、利根軌道・吾妻温泉馬車軌道の駅名「渋川中塚町」に関しても参考文献中に出典が提示されておらず、当方の触れた公文書や公文書・鉄道統計を根拠とする出版物等の資料では利根軌道の営業区間は「渋川 - 沼田」としてあって「渋川中塚町」の駅名は一切見当たらず、この駅名については今の所全く「裏が取れない」状態です。いずれにしても、同書は「内容によっては」参考文献とするには少々の検証というか何らかの補強が必要かと推察します。

延長された起点の駅名が明記されている確実な資料が見当たらない以上は正しい駅名は「渋川」・「渋川中塚町」いずれとも断定できないので、参考文献を大幅追加して駅名を断定できない理由も記した上で本文から注釈節に移動させていただきました。

なお余計な事ではありますが、はるか昔のこととて当時を知る人も少ないかすでにいない、少ない資料、取材時間は莫大で経費もかさみ、コストは販売価格に跳ね返ってくる上にマニアックな内容で出版物としても売りにくい……形をなすには困難極まる題材に挑んだ著者に敬意を表するものであります。--DY28D35会話2016年10月1日 (土) 14:06 (UTC)[返信]

興味深い情報ありがとうございます。本題については難問ですが調査したいとおもいます。ところで「遠い日の鉄道風景」について東京馬車鉄道は凹型レールを使用したかですが、「東京都電前史〔上〕」『鉄道ピクトリアル』No.121によれば明治28年の雑誌に「軌条は45ポンドのチャンネルレールで表裏に溝があり裏面の溝で縦枕木にはめ込む」と記述されているそうです。さらに「東京馬車鉄道」東京都73頁に軌道断面略図が掲載されており、横枕木に縦方向にレールのように縦枕木が敷かれそのうえにH型の鋼材が載せているのがわかります。なおこのレールは「東京都電前史〔上〕」によれば磨耗して脱線するので明治31年に交換したようです--Tamrono157会話2016年10月2日 (日) 05:10 (UTC)[返信]
鉄道院年報. 明治42年度(国立国会図書館デジタルコレクション)に利根軌道 明治40.6.4特許、区間群馬県渋川町中塚、同郡沼田町間となっています(中塚を長塚と誤植した可能性もあります)。その後鉄道院年報. 明治44年度開業認可明治44.4.1区間群馬県渋川町-沼田町となり字がありません。また新町-中塚(長塚)間が未開業線欄に掲載されるはずですが見当たりません。このあと数年間の年報には利根軌道は開業も特許失効もないので確認できず作者の出典は未だ不明です。
大正2年に出版された本(前橋と高崎 : 附・四季の伊香保)に掲載された吾妻軌道広告「吾妻軌道は前橋、高崎電車に接続し云々」はこのころ利根軌道が新町から(長塚)町に延長したようにみえます。
特許失効日は明示されているので史料探求をしてみます--Tamrono157会話2016年10月3日 (月) 12:52 (UTC)[返信]
東京馬車鉄道のレールの件、鉄道員年報の件、お教え頂いてありがとうございます。大変勉強になりました。なるほど、これは「調べ洩らした上に裏もとらなかった」のは当方であったようです。いやはやどうも。
いずれにせよ年報中の『区間群馬県渋川町中塚』これですね、問題は。地名としては明治末に『長塚町』だったようですので。
現物が手元にないうろ覚えで本文中に書けるはずもないのですが、この『遠い日の鉄道風景 - 明治のある日 人車や馬車鉄道が走り始めた』が発行された当時、雑誌(鉄道ファンだったか?)に白土貞夫氏が推薦記事を執筆されており、この『中塚町』に関して著者の調査・執筆の流れは『写真絵葉書で駅名を発見』→『公文書をあたるが駅名は発見できず、群馬県側の資料で廃止申請・認可年月日を発見』→『土地の古老に地名の確認を取る』→『執筆』かような流れだったと記憶しています。当時パラパラ雑誌を見ただけの当方の記憶違いもあるかもしれません。『土地の古老に地名の確認を取る』というあたりに問題が生じやすいかと思います。証拠も何もないので思うだけですが。
なぜならば義務教育制度でなかった当時、学校に通わなかった子供が多かった、さらに方言で訛りが強かった、その後の長い歳月……誤字や思い込みの生じやすい下地が揃い過ぎているからです。土地の古老の証言は調査のきっかけにはなりましょうし興味深い情報ではありますが、残念ですが証拠能力がありません。読み物としては結構なのですが。
鉄軌道に限らず、多くの郷土史家の手になる調査が今一つ信用できないのはこうした証言の裏取りが粗末なケース、さらに『そうだったらいいなぁ』という希望やファンタジーを『こうだ』とばかりに盛り込んでしまうケースが多いように感じます。事実は1つしか無いわけで、それは著者の夢や願望とは何ら無関係なわけですので。当方も正直手詰まり(この程度の低い調査能力ですので)ですが、しつこく調べてみたいと思います。ご指摘ありがとうございました。--DY28D35会話2016年10月4日 (火) 13:52 (UTC)[返信]
国文学研究資料館に行ってきました。ここの図書館には群馬県庁文書(軌道関係書類綴)明治40~大正7年と前橋渋川間軌道関係書類,大正2~14年という簿冊があります。起業目論見書があればとちょっと期待したのですが残念ながら利根軌道に関する書類はありませんでした。群馬県の公文書館は検索かけても利根軌道はヒットせず準備なしに行くには躊躇するところです。
明治時代の群馬県統計書にはでていたのですが--Tamrono157会話2016年10月5日 (水) 13:27 (UTC)[返信]