ノート:分析哲学

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あからさまに「分析哲学者」と呼ぶのが相応しいかどうか分からない人もいるかもしれませんが、 ストローソン、オースティン、エア、デイヴィッドソン、グッドマンを追加しておきました。

分析的教育哲学[編集]

分析哲学の記述は見られるが、分析哲学に基ずく教育哲学の記述が皆無なことに最近気付いて、あらためてこの分野の日本の後進性を再認識した。とりあえずスケッチを掲載する。後で海外の文献リストを掲載する。

  古味堯通 分析的教育哲学(Analytic philosophy of Education )の日本への導入に努めた

「教育理論―その論理的前提」〔昭和35年 日本教育学会大阪大会〕について稲富栄次郎は「わが国で最初の教育学の学問的性格を明らかにしようとする発表である」として教育学術新聞に掲載した(昭和35年5月9日 第215号)  

関連

         教育哲学の科学性          日本教育学会 昭和31年
         教育学と論理実証主義        九州教育学会 昭和31年
         教育の意味論的把握         九州教育学会 昭和32年
         教育学の構造            日本教育学会 昭和33年
         分析的教育哲学の課題        日本教育学会 昭和34年
         教育の理論―説明の論理       九州教育学会 昭和35年
         教育哲学と教育科学         日本教育学会 昭和36年
         教育理論の科学性について      日本教育学会 昭和38年
         教育理論の進め方について      日本教育学会 昭和39年
         情報の精度について         九州教育学会 昭和42年
         教育理論における反証可能性について 日本教育学会 平成 2年

     教育哲学と教育理論ー分析哲学的発想ー九州大学教育学部紀要7集      教育学の哲学            九州大学教育部紀要第9集      統合の知識論ーその1-       福岡教育大学紀要第19号      統合の知識論ーその2-       福岡教育大学紀要第20号      教育理論の教育現実への有効性をめぐる佐賀大学教育学部研究論文集      諸問題ーその1-          第38集2号         -その2-          佐賀大学教育学部論叢創刊号         -その3-          九州女子大学紀要第28巻

「だろう?」[編集]

不確かな断定「だろう」を本文に列挙するのは、Wikipeidaとしていかがなもの「だろう」か?
そもそも「不確か」といわれてしまうと、反論等もしようが無い。
>・「しかし、概ね次のように特徴付けることができるだろう。」
>・「分析哲学の一分野であり得るだろうし、」
>・「分析形而上学となり得るだろう。」

分析哲学の本体[編集]

現状の記事は一部を除けば、単なる分析哲学の記事です。分析法学、分析美学、分析的倫理学、アリストテレス的現代形而上学、分析アジア哲学等々は、分析哲学の原点ではありません。分析哲学の応用範囲を分析哲学に含めることは全世界的な傾向ですが、応用領域を安易に詳述しないことは、少なくとも最近までの日本語版の美点でした。そもそも、用語のいびつさに鈍感であることは、分析哲学のポリシーに反することです。領域の呼称が、狭義の哲学、もとい、哲学の普遍性と矛盾するなら、それが分析哲学に含まれるかどうかという問いが成り立つ以前に、それは哲学でないことを意味します。領域の呼称がカレッジの設立理念と矛盾することがどのような意味を持つのかを、事前に検討して下さい。春秋社の双書にもある通り、これは極めて「重要」なことです。--Textural会話2021年1月29日 (金) 12:09 (UTC)[返信]

「通史」節について[編集]

この編集[1]にて追加された「通史」節について、出典がついておらず、記述も意味不明な部文が多数あり不適切な内容になっています。例えば、

  • ローマ帝政期には、議会と元老院が成立した。貨幣と4種類以上の様々な金属もあった。それ以外に、パルミジャーノレジャーノ、ペコリーノロマーノ、グラナパダーノなどのチーズが生まれた。だが、パルミジャーノレジャーノに先行してギリシアにはフェタがあった
    • チーズと分析哲学にどのような関係があるのか不明
  • オッカム 幼少期は、ミカエルでもカマエルでもない天使だった
    • 意味不明
  • 事件 その価値の転倒は感覚与件の切断を含んでいた
    • 意味不明

この他、意味不明な文章の連続です。

そもそも「歴史」節に「分析哲学の歴史は、大まかに言えば、19世紀末から20世紀初頭にかけての論理学の発展を背景にした、「論理的言語分析の哲学」、つまり或る種の典型的な言語哲学として始まった」と書かれており、付随する説明として「第二次世界大戦以前」「第二次世界大戦以前」節に歴史的概要があります。哲学全体の歴史を示したいのであれば哲学#歴史に誘導すればよいだけと考えます。「通史」節のような意味不明な記述があることは、読者にとって迷惑に他ありません。この節全体の削除を望みます。--みそがい会話2021年2月10日 (水) 14:45 (UTC)[返信]

その多義的な要素とも取れる内容については、「竹尾治一郎「分析哲学」『哲学を学ぶ人のために』藤沢令男編、世界思想社、vi」をご参照下さい。「分析哲学」は「125~」となっており、「III 哲学はどのような方向に探究されつつあるか」「分析哲学」「一 分析哲学の発展」が125頁から始まり、「分析哲学」は他に「二 分析哲学の諸問題」があり、「分析哲学」には「歴史哲学」、「哲学における東洋と西洋」が続きます。そして、「VI 哲学と西洋史」「V 文献解題」が続きます。「125~」という引用分からもわかることですが、それ以外もあります。終わりがありません。これらが、「分析哲学」の索引の内容になります。哲学史と分析哲学において参照される通史との相違をこの意味で理解して下さい。出典は『哲学を学ぶ人のために』です。
このこと以外には多重量化の問題があり、分析哲学における通史と、分析哲学外の、つまり、大陸哲学等の通史は相違します。多重量化の知見を踏まえたウィッセンシャフトとして分析哲学が存立していることをご確認下さい。冒頭部分の説明は、その意味です。
概要を理解していない人に、詳細の意味の評価はできないと思います。見解の全面的な撤回を強く希望します。「竹尾治一郎「分析哲学」『哲学を学ぶ人のために』藤沢令男編、世界思想社、vi」で示されている通り、広範なことから、出典の提示に膨大な入力時間を要することが考えられます。削除等は最大限待って下さい。「竹尾治一郎「分析哲学」『哲学を学ぶ人のために』藤沢令男編、世界思想社、vi」で示された文献等の内、該当する内容を記載したもので、Wikipedia:信頼できる情報源になっている文献等の全てが出典です。--Textural会話) 2021年2月11日 (木) 11:52 (UTC) 誤記を修正しました。--Textural会話2021年2月11日 (木) 11:56 (UTC)[返信]
まず、私が例に挙げた文章について、何を意味し、分析哲学の通史にどのような関係があるのか説明をお願いします。文意、日本語として意味が不明なのです。出典とされる文献については、今は閲覧できませんので、記述が適切であるのかどうかは判断できませんが、記事に記載されている文章が何を意味しているのかは、編集者ならば説明できるはずです。よろしくお願いします。--みそがい会話2021年2月11日 (木) 13:38 (UTC)[返信]
この版[2]において、「通史」節を作成した編集者の投稿ブロック処置のため「通史」節は削除されました。このため、このノートにおける編集者との対話も終了します。--みそがい会話2021年2月12日 (金) 12:56 (UTC)[返信]