ノート:全琮

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年齢について[編集]

享年52歳というのは、『建康実録』からなのでしょうか?

ウィキペディアの龐統の項目には、

「呉の重臣の陸績、全琮、顧邵(顧雍の子)らとは懇意であり、龐統は陸績を「駿馬」、顧邵を「足が遅いが力のある牛」、全琮を汝南の樊子昭に例えて褒め称えた。龐統が周瑜の遺体を呉に送り届けた帰りは彼らが見送りにやってきており、陸績と顧邵に別れの際「天下が太平になったらまた四海の士を批評しましょう」と言われるなど深い交流があった。」

とあります。

陸績・顧邵は共に180年代後半の生まれと思われますし、龐統が呉に行ったのは、周瑜の遺体を伴ってという事から、210~211年頃と思われますので、196、若しくは198年生まれというのは、若過ぎないかと思ってしまうのですけれども。--118.155.152.40 2011年8月3日 (水) 14:13 (UTC)[返信]

検索にて、生没年が『建康実録』からの記載らしいという事は分かりましたが、それを事実とするのはいかがなのでしょうか? 『建康実録』は唐代に刊行された、どうやら個人の編纂物らしいですし、一次資料とするには張紘の没年など明らかに間違っている記述もありますので、全てを鵜呑みにするのは危険な気もするのですが。--118.155.152.40 2012年1月28日 (土) 09:18 (UTC)[返信]