ノート:侍中府

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

侍中府の存否[編集]

2004年に作成されたこの「侍中府」なのですが、漢籍全文資料庫で検索しても、ヒットしません。ウェブ検索でもウィキペディアから派生したサイトばかりで、例外は個人サイト一つ[1]です。ウィキペディアの「侍中府」はそのサイトからではなく、同じ元ネタで、ちくま学芸文庫『正史三国志』8収録の「三国官職表」から抜き出し、独自の説明を加えたものと思われます。

その「三国官職表」は、清代に洪飴孫が作成した「三国職官表」を、日本語訳者の一人である今鷹真が整理したものです。表は、同類の官職をまとめて「皇太子府」「侍中府」など「府」を末尾につけた見出しをもうけ、そのあとに個々の官職を列挙し、定員などの情報を付けます。しかし、府を末尾に付けると政府機関の名になるというのはずっと後の時代で、漢代には役所の場所・建物のことです。「三国官職表」のなんとか府は、見出し以上のものではないと思われます。

特に「侍中府」はありえません。皇帝のそばで勤務する彼らが、独自の役所を持っているはずがないからです。--Kinori会話2023年12月15日 (金) 15:36 (UTC)[返信]

削除依頼に出すので、さらに補足しておきます。上に書いた漢籍全文資料庫は、中国のすべての正史・儒教経典などを一括検索できるサイトです。
通例、中国の正史は、官制について一、二巻をあてています。しかし簡略で知られる『三国志』にはそれがありません。補うために清代の学者が作ったのが「三国職官表」です。『三国志』を中心に史書にあらわれる官職を抜き出し、整理したものです。たとえば史書に「侍中の誰々が何をした」と書いてあれば、侍中という官職が当時あったことがわかります。こうした文からは、上下にどんな官職があったかはわかりませんが、前後の時代の制度から類推してある程度まとめることはできます。まとめたものにつけた見出しが「侍中府」等と思われます。
今のように、侍中府が中国史を通じてあったかのような書き方は論外です。正しく書き直せば、洪飴孫(今鷹真の可能性もある)が自著に付けた見出し、という記事になります。しかもこの見出しは他の学者から参照されていないのです。洪飴孫が悪いということはありませんが、ウィキペディアが誤った発信をするのはよろしくありません。--Kinori会話2023年12月22日 (金) 18:27 (UTC)[返信]