ノート:会津藩

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藩邸及び江戸での菩提寺 という項目がありますが、3カ所だけでなく 時代とともに移ったところもあります。 削除した方がよろしいでしょう。--富岡志郎 2010年12月5日 (日) 14:15 (UTC)[返信]

斗南藩の餓死者について・その他[編集]

前の版で、「会津藩から斗南藩に移住した者は約17300名であるが、壮絶な寒冷と飢餓に苦しみ、一冬を越えたところで約6000名が餓死、病死によりこの地に伏せた。」という文章が加えられていましたが、根拠がないと判断し削除しました。

そもそも斗南藩へ移住した会津藩士の人数は、約1万4800人とする史料(若松県の上申書)と、4332戸1万7327人とする青森県側の史料が残っています。一方、廃藩置県直後に発足した青森県側からの明治4年旧暦9月15日の報告書によると、移住人員は1万7327人で、内3300人が出稼離散しており、残りの在籍が1万4000人余、この内老年廃疾者が6027人、1223人が幼少者、男子壮健者が4000人程、女子壮健者が2378人とあり、どこにも餓死者の入る余地がありません。 それが明治5年になると、士卒の総計は約3300戸1万2599人となり、明治7年の太政典類では、移住者1万7千人のうち約1万人が会津に帰ったと書かれています。

実際のところ戊辰戦争では会津藩士は女子供を含めて約3000人亡くなっていますが、旧士族階級の人たちはそのための名簿を作成しています。本当に同じ規模の人数が餓死で亡くなっているのなら、餓死者に関する史料をそれなりに揃えているはずです。Orichalcum会話2013年3月9日 (土) 10:05 (UTC)[返信]

更に本文中で「実高7千石」とありますが、これは多くの書籍にも認められる誤った解釈で、7380石というのは実際の税収(収納高、現石)であって、実高(内高)ではありません(『会津若松史 第5巻』や『秩禄処分顛末略』を参照)。また柴五郎の記述は非常に重要な話かも知れませんが、それはあくまでも下北半島に移住した柴五郎の体験であり、柴五郎の項目に書くべき内容です。少なくとも同じ斗南藩でも下北半島と三戸周辺では農作物の収穫状況も異なり、また女性が身を売ったという柴五郎の証言を斗南藩全域で一般化するわけにはいかないでしょう。Orichalcum会話2013年3月9日 (土) 16:49 (UTC)[返信]

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