ノート:伏見城

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テンプレートの除去について[編集]

合意無きテンプレート除去はお止めください。記事執筆の参考とした資料を挙げていただければ良いことです。--Uniontour 2008年1月14日 (月) 10:52 (UTC)[返信]

テンプレ除去については、貴殿に対し利用者‐会話:Uniontour#伏見城などについてにて疑問を呈したにも関わらず、当方が納得できる対応をしていただけなかったための措置でした。現状は以下に必要な記述をして頂いているので、急いでテンプレを剥がさなければならない状況ではないと考えます。--しいたけ 2008年1月14日 (月) 11:26 (UTC)[返信]
具体的な理由を書かずにテンプレートを貼り付けることも合意されてないような気がします。出典の明記はとても重要なことですが、出典を示してない項目が多数ある現状の中で、当該テンプレートを貼り付けてまわることは、現実的かつ建設的な対応ともあんまし思えないのです。Template:出典の明記には「本テンプレートを貼付する場合、記事の内容のどの部分について出典を求めるか、ノートなどで具体的に提示することが望まれます。」とありますので、Uniontourさんは具体的にどの部分に出典を求めたいのかさえ書けばよいと思いますよ。--shimoxx 2008年1月14日 (月) 14:44 (UTC)[返信]
僕もshimoxxさんの意見に賛成です。--219.105.254.72 2008年2月11日 (月) 13:57 (UTC)[返信]
要出典タグを追加いたしました。執筆に使用された資料をご紹介いただければ幸いです。出典を示すことは検証可能性を満たす上でとても大事なことなので、他の記事は現時点で出典が示されていないのに何故この記事に貼るのかというような反論は、建設的ではないように思います。出典の明記タグの是非をノートで仔細に論じる時間は、むしろ参考文献の書誌情報を調べて記事に追加することに利用した方が良いのではないでしょうか。--Uniontour 2008年5月25日 (日) 11:52 (UTC)[返信]

「出典の明記」について[編集]

良質な記事とは思いますが、現状では参考文献など一切示されていない為に、画竜点睛を欠くと思います。是非とも参考文献や出典を挙げていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。--Uniontour 2008年1月14日 (月) 10:59 (UTC)[返信]

  • (コメント)2010年4月12日 07:48版にて当ノートの「過去ログ化」が行われましたが、当セクションで指摘の内容について解決していないままの過去ログ化は、テンプレ貼付の理由がわかりにくくなるため、戻しました。--Si-take. 2010年4月12日 (月) 09:58 (UTC)[返信]
コメントテンプレート張り付け時に比べまして脚注もあり、指摘されている内容はすでに解決されていると思われます。但し個別問題がありましたら、[要出典]を明記していただければと思います。また本記事内容は現在加筆作業中で近日中に投稿予定です。もし他に指摘がなけれ1週間の経過期間をみて再ログ化したいと思います。--ブレイズマン 2010年4月12日 (月) 13:58 (UTC)[返信]
  • (コメント)ご判断については同意しますので、テンプレ除去については賛成します。なお、当ノートは過去ログ化を必要とする特段の事情はないと思いますので、無理に過去ログ化を行う必要は無いと思いますが。。。(といいますか、よほど積極的な理由がない限りは、過去の議論の見通しをわざわざ悪化させるような行為はご遠慮いただきたいです。)--Si-take. 2010年4月12日 (月) 14:05 (UTC)[返信]
コメント早速のお返事有難うございます。テンプレ除去に関しましては了解しました。「無理に過去ログ化を行う必要は無い」というご指摘ですが、Help:過去ログの指針によりますと、「過去ログ化は一般によいことと考えられています」「可能であれば議論が落ち着いている頃合いを見て過去ログ化することが推奨されます」と、「よいこと」「推奨する」とされておりますので、1年以上前の議論に関しましてはログ化するべきではないかと思っております。但し、なにかこのページをログ化する事に特段の問題が発生する場合があるならばログ化を控えますが、特に何もなければ実施させていただきたいと思います。--ブレイズマン 2010年4月12日 (月) 14:27 (UTC)[返信]
  • (コメント)『肥大したノートページ』だとは思いませんし、別にやらなくてもいいんじゃないですか?どうしてもやりたければ、やっていただいて結構です。但し、賛成はしません。--Si-take. 2010年4月12日 (月) 14:56 (UTC)[返信]
チェック お返事有難うございます。私自身は一定の期間が過ぎた議論はログ化してもよいと思っておりますが、「肥大したノートページだとは思いません」という指摘は、特段の理由とも考える事も可能だと思います。否定的な意見がある以上、無理にログ化する必要は無いと思われますので、現時点でのログ化は見送り、一旦議論を終了させていただけばと思います。--ブレイズマン 2010年4月12日 (月) 15:23 (UTC)[返信]

城郭の節を3世代に分割した件について[編集]

当初「城郭」という説を3世代に分割した件については、私自身はまだ時期尚早ではないかと思います。3世代がどのような城郭になっていたのか研究が進まれている段階で、このように明確に区分けできるほど研究が進んでいないと思われます。具体的に、伏見城#城下町の節は、豊臣氏木幡山伏見城に含まれていますが、大名屋敷は指月山伏見城時代にもありました。更に伏見城#徳川氏木幡山伏見城の節に「北側一帯曲輪群(4つの曲輪)と連絡する。」とありますが、4つの北側曲輪は徳川時代にはすでに無くなっていた可能性も示唆されています。また一方では、4つの北側曲輪は徳川時代にも存在していたという説もあります。また他の個所でも不明な部分が徳川時代の節に組み込まれていたりしております。もう少し研究成果が進んでから3世代に分割するか、一定量の資料を整えたうえで分割されるのがよろしいかと思います。不明な点が多いため、今の段階では城郭という節でくくっておき、文中で「この天守は豊臣氏木幡山伏見城に想定される」などした方がよいと考えます。もし反対意見がなければ2週間を目処に、以前の版に差し戻し、そこから加筆して頂ければと思いますが、なにか問題点がございましたら、ご指摘いただけますようお願いします。--ブレイズマン 2010年5月31日 (月) 07:07 (UTC)[返信]

ブレイズマン様。こんにちは。当該部分を分割したものです。私としては明確に区分けできるほど研究が進んでいないからこそ分割すべきと考えました。というのは、現状ではどの伏見城についてかは分からないが、とにかく伏見城ということで書き進められている部分が増えているように思われるからです。おっしゃるように城下町につていは指月山からあったのでしょうが、であれば、木幡山の城下町と連続性があるのか、ないのか、それとも分からないのか、その辺を明確にした方がよいのではないでしょうか。「城郭」という枠にすると3つの城が混同されやすくなり読者にも誤解を与える可能性が高いと思います(ただし、城下町が3つの城に共通するものであれば、別に「城下町」で扱うのが適切だとは思います)。少なくとも、ほぼ別物といえる3世代の城郭が存在したのであれば、別とわかる部分だけでも別にした方がよいのではないでしょうか?私もかつての記述量では分離は時期尚早と思っていましたが、最近の加筆により内容の充実を感じるのと同時に記述の錯綜も感じるようになり、既にその時期に達していると考えた次第です。今の段階でも「この天守は〇〇伏見城に想定される」を各部に加筆する形式をきちんと実施すればかなりの分量になってしまいます。
そこで、お伺いしたいのはブレイズマン様のおっしゃる研究成果が進んだ、あるいは一定量の資料を整えられたというのは、具体的にどの辺りを想定されているのでしょうか?私としては、現状でWikipediaの他の城郭のページに比較しても相当に充実してると思います。学会での研究が進展というレベルであれば、その時期は何十年先、あるいは永遠にこない可能性さえあるように思いますが、いかがでしょうか?--たなしん 2010年5月31日 (月) 12:56 (UTC)[返信]
コメント「明確に区分けできるほど研究が進んでいない」という認識があるにも関わらず、ウキペディアが先行して記述してしもうのは違和感を覚えます。どの遺構がどの時代に相当する遺構なのか、まだ部分的にしか解っておりません。地上面で確認できる遺構の大部分は徳川時代なのか、もしくは徳川時代に改修が加えられているか、ひょっとしたら豊臣時代の縄張をそのまま利用されているのか、それすらもよく解っていません。そのような状況で3世代に城郭を分けるのは問題があると思われます。現在の記載は私が加筆した時に比べて断定的な記述になっており、私の認識では一部を除いてどの時代に属されていたか殆どか不明です。ここまではっきりと分けてしまいますと、Wikipedia:検証可能性にある「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです」という部分から逸脱してWikipedia:独自研究は載せないに抵触してしまう懸念が出てくる可能性があります。そこで、一旦版を戻し「別とわかる部分だけでも別にした方がよいのではないでしょうか?」と言う部分に関しては、そのような記述も可能と思われますので、節を再分割して出典を明記しながら加筆して頂ければと思います。節を分割しない方がよいというわけではなく、明確な部分は分けてもよいかと思います。ただ、私が加筆した部分の殆どがまだ現時点では不明、もしくは議論の余地がある部分となっております。御承知のように、伏見城は、豊臣政権から徳川政権に移行する重要な城郭でもあるに関わらず、十分な調査が出来ないため、沿革と違い、城郭の年代に関してはいろいろと議論があり不明な点が多い、集約化されていない状況でウキペディアが先行して記述してしまうのは問題がある、という事はご理解いただければと思います。--ブレイズマン 2010年5月31日 (月) 17:17 (UTC)[返信]
コメント誤解があるようですが、私は、どの遺構がどの時代に相当する遺構なのか、区分できるものはする、できないものはできないと明確にした方がよいのでは?と申し上げています。区分できないものを区分するのであれば、それには私も違和感を覚えますし、検証可能性に抵触すると思います。ブレイズマン様は「私が加筆した部分の殆どがまだ現時点では不明、もしくは議論の余地がある部分となっております。」と仰っていますが、であるにもかかわらず、現時点では不明であるとも、議論の余地があるとも記述せず、どの城ものものかは分からないがとにかく伏見城という扱いにしていることの方が私は違和感を覚えます。「城郭の年代に関してはいろいろと議論があり不明な点が多い」という点には同意いたしますが、だからこそ最低限明らかな部分だけでも分けることによって、不明な点は不明な点としてはっきりさせたいと考え当該部分を分割したということをご理解頂ければと思います。ただし、別の方法で峻別できるのであれば、私も3つの区分にこだわるわけではありませんが、統一して書いていた結果として記述の錯綜した状況があるわけですので、ブレイズマン様の仰っしゃる分割すべき時期である研究成果が進んだ、あるいは一定量の資料を整えられたというのは、具体的にどの辺りを想定されているのか、お答え頂きたく思います。--たなしん 2010年6月1日 (火) 12:13 (UTC)[返信]
コメントいずれにしましても現在の記述は正確ではありませんので元の版に差し戻させていただきます。最新の版は「区分できないものを区分する」記載になっております。基に戻した後、節を再分割して「最低限明らかな部分」があるのならば、出典を明記しながらご自身で加筆していく分に関しては歓迎される行為だと思います。一応申し上げますが、「不明」と記載するにも出典が必要です。出典基に「不明」と記載されていないのにも関わらず「不明」と記載すると、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触します。「トーク:伏見城」で「不明」とするのは出典の行間を読みながら、もしくは私の個人的な分析が全くないとまでは言い切れません。しかし本文伏見城は違います。本文に「不明」と記載するのには明確な出典が必要で自由に「不明」と記載できるわけではありません。
それとは別に「具体的にどの辺りを想定されている」という質問の意味がよく解らないのですが、私の記載した意味は、例えば「4つの北側曲輪」(御花畑曲輪、旧伏見桃山城キャッスルランドを中心とした)は徳川氏木幡山伏見城時代へ組み込むならば、それは「もう少し研究成果が進んでから3世代に分割するか、一定量の資料を整えたうえ」と、明確になってから「4つの北側曲輪」がどの時代に属するのか区分けした方がよいと記載しました。上記にも「城郭の年代に関してはいろいろと議論があり不明な点が多い、集約化されていない状況でウキペディアが先行して記述してしまうのは問題がある」と記載しております。また私の解釈に誤解があるようでしたらご指摘いただければと思います。--ブレイズマン 2010年6月1日 (火) 15:46 (UTC)[返信]
コメント有無を言わさずの差し戻し宣言とは随分強引ですね。繰り返しになりますが、出展に記載されていないのであれば、記載されていないので「区分できない」と明確にした方がよいのではと申し上げています。区分できないものを区分してる箇所があるのであれば、その部分を修正するなり、区分できない項目に移されればいいのではないでしょうか。そもそも、出典が不明かどうかすらはっきり示していないというのであれば、そのレベルの情報源を使うこと自体がWikipedia:独自研究は載せないに抵触するのではないでしょうか。「具体的にどの辺りを想定されている」というのは、「もう少し」や「一定量」を具体的に示して頂きたいということです。どの伏見城についてか「最低限明らかな部分」のある遺構がいくつあれば分割に賛成なのですか?ということをお聞きしたかったのです。しかし、ブレイズマン様は合意を形成するつもりはないようですので、この質問は取り下げたいと思います。--たなしん 2010年6月2日 (水) 12:51 (UTC)[返信]
コメント「有無を言わさず」という事ですが、現在はまだ差し戻しておりません。意見を待っており「有無を言わさず」の点は当てはまらないと思います。次に「その部分を修正するなり、区分できない項目に移されればいいのではないでしょうか」というご指摘なのですが、もしそのような事が可能であるならば差戻すのを取りやめ、再整理されるお時間を2週間程度お待ちいたしましょうか?私は「一旦差し戻しをした後に明確にできる部分を分割すべき」という意見でございます。資料を整えるのに一定の時間がかかると思いますので、それまでの期間、一旦差し戻しておいた方がよいと思われますが、いかがでしょうか?次に「どの伏見城についてか「最低限明らかな部分」のある遺構がいくつあれば分割に賛成なのですか?」という事ですが、出典が明記できるのであるのならば例え1つの遺構であったとしても反対いたしません。「出典を明記しながらご自身で加筆していく分に関しては歓迎」されると思っていますので、出典さえ明記して頂けるならば分割に反対しません。資料を精査したわけではありませんので、現時点では本文には記載しませんが、例えば大名屋敷部分に関しましては、発掘調査などにより、焼土層→金箔瓦→整地痕など豊臣時代、徳川時代の遺構がはっきりしている部分もあります。また天守構造でも豊臣時代は本丸の端、徳川時代は本丸の中央、と記載されている資料はありますので、差し戻した後、再分割、加筆して頂く分に関しては何ら問題ないと考えています。--ブレイズマン 2010年6月2日 (水) 16:12 (UTC)[返信]
コメント「まだ」かどうかは問題ではありません。「いずれにしても」すなわち、結論がどうであろうとも差し戻すと仰っていることが「有無を言わさず」なのです。ですから私が合意に向けて意見を差し上げても無意味なので質問を取り下げると申し上げたのです。また、「お時間を2週間程度お待ちいたしましょうか?」ということですが、なぜ、私がブレイズマン様に時間を頂戴するという立場で編集しなければならないのでしょうか。逆に私が「どのような事情であれ差し戻しはしません、もし異論を唱えることが可能であれば2週間程度お待ちいたしましょうか?」とコメントしたらどのようにお感じになりますか?それと、「出典が明記できるのであるのならば例え1つの遺構であったとしても反対いたしません。」ということですが、であれば、「大名屋敷部分に関しましては、発掘調査などにより、焼土層→金箔瓦→整地痕など豊臣時代、徳川時代の遺構がはっきりしている部分もあります。また天守構造でも豊臣時代は本丸の端、徳川時代は本丸の中央、と記載されている資料はあります」と、3つの具体例を示されているのですから、既に分割の要件を満たしていることになります。なのに、なぜ現状からの修正は不可能で差し戻すしかないといことになるのか、理解できません。本質的な部分と離れ、なおかつ合意形成の見込みのない議論になったことは残念です。--たなしん 2010年6月3日 (木) 12:32 (UTC)[返信]

コメント「いずれにしても」というのは、上記記載通り「いずれにしましても現在の記述は正確ではありません」ので「元の版に差し戻させていただきます」としております。しかし、記述が正確に変更されるならば差し戻す必要はありません。「有無を言わさず」という指摘は当てはまらないと考えます。今の版は不正確な記述があります。その内容をなるべく早めに訂正する必要があり2週間程度といたしました。次に「既に分割の要件を満たしていることになります」という事ですが、それではWikipedia:出典を明記するの要件にあてはまりません。資料名や記載ページ数など明記する必要があり、「曖昧な記憶」だけで出典を明記したことにはなりません。

正確でないまま放置するのには問題があります。緊急避難的に基に差し戻させていただき、すぐにという訳にはいきませんが、資料精査し、各年代別に「明確にできる部分」がありましたら、私自身でも再分割、加筆させていただきます。出来ましたら、伏見城の資料を調べて頂き、伏見城の記事充実に共にご協力願えればと思います。--ブレイズマン 2010年6月3日 (木) 14:19 (UTC)[返信]

コメント有無を言わさずには当たらないとおっしゃりながら、速攻で差し戻しなんですね…ブレイズマン氏が主張される手法を一方的に実行されたことについては、全く同意できませんが、本質から離れた議論をこれ以上続けても仕方がありませんので、これ以上は申し上げません。--たなしん 2010年6月5日 (土) 12:16 (UTC)[返信]
コメント正確でない記述を修正するため、緊急避難的に差し戻しましたが、資料を整え、出典を明記し、再分割、加筆することを否定しているわけではありませんので、本質に近付けた点でご協力願えればと思います。--ブレイズマン 2010年6月6日 (日) 08:42 (UTC)[返信]

未発見の古墳[編集]

現在伏見城#廃城後の節に「未発見の古墳ではないかともいわれている」と記載があります。当時私も記事を拝見しており、このような記述があったと記憶があります。しかし、この主な発言をしたNPO城郭遺産による街づくり協議会の中井均氏によりますと、「当時そのような発言をしたが、後によく考えてみると西の丸の中央部に古墳をそのまま残すのは近世城郭ではあり得ない」という趣旨の否定しておられる発言をお聞きしました。ただ、Wikipedia:独自研究は載せないによりますと、「信頼できる媒体において未だ発表されたことがない」と指針があり、まだこの事は媒体では発表されていないと思われ、今変更すると独自研究に抵触すると思われます。ただ、中井均氏は数多くの著書や研究論文があり、今後「未発見の古墳」を否定する出典が出てくるかもしれませんので、もしお気づきの方は加筆願えればと思います。--ブレイズマン 2010年6月6日 (日) 08:42 (UTC)[返信]